2016年9月7日水曜日

祈りが「足りない」のか、他の何かが「足りない」のか

 昔、『ディアブロ』というテレビゲームがあって、学生時代によくやった。
 アクションRPGで、いろんな職業のプレイヤーを使って、ダンジョンを探検していく。プレイヤーの1人、「魔法使い」は魔法を使って敵を攻撃する。でも魔法を使うたびに「マナ」というエネルギーを消費する。マナがゼロになると、回復するまで魔法は使えない。
 魔法を使えない魔法使いほど悲惨なものはない。何もできない、ただのジジイだ。もう逃げ回るしかない。
 で、マナがないのに魔法を使おうとすると、ジジイが一言。

「マナが足りん

 よくマナの残量を見ないで魔法をバンバン使いまくって、突然魔法を出せなくなって、アレッと思うと、このセリフが虚しく響きわたる。
「マナが足りん」
 目の前には大量の敵。こっちは何もできないジジイが1人。その絶望感、今でも忘れない。

■祈りが「足りない」

 なんでいきなり『ディアブロ』の話かというと、聖霊派・福音派あたりのクリスチャンが時々同じようなセリフを言うからだ。最近も聞いた。こんな感じ。

「自分は祈りが足りない」

 くわしい事情はさておき、何かがうまく行かなくて、それを自分の「祈りの足りなさ」のせいにしている。そしてこんなふうに考える。

「もっと祈らなければダメだ」
「もっと信仰を強くしなければダメだ」
「もっと礼拝しなければダメだ」
「もっと◯◯でないとダメだ」

 機会があれば聞きたいんだけど、じゃあどれくらい祈れば「足りる」んだろうか。どういう状態になれば「祈りが足りた」と言えるんだろうか。本人はそれを数量的に理解しているんだろうか。

「祈りが足りない」のなら、「足りる」まで祈ればいいのではないか。でも、多分そういうことではない。なぜなら年中同じようなことを言っているから。

「祈りが足りない」

 何をどれだけ祈れば「足りる」かわかっているなら、足りるまで祈ればいい。でも祈っても祈っても「足りない」としたら、「足りない」のは祈りではない。本当は何が「足りない」のか、わかっていないのかもしれない。何かが「足りない」と思うなら、具体的に何がどれだけ「足りない」のか、どうすれば充足できるのか、その道筋とゴールについて考えなければならない。
 つまり、方向性を根本的に見直さなければならない。と思う。

■たくさん祈れば何かに到達する?

「激しく祈る」
「長時間祈る」
「泣き叫んで狂ったように祈る」
「心を水のように注ぎ出して祈る」

 聖霊派の教会群だと、そんな「熱心な祈り」を捧げることが推奨される。
 熱心に祈れば答えを得られる、熱心に祈れば勝利できる、熱心に祈れば祝福される、熱心に祈れば他のみんなより一歩先に出ることができる・・・みたいな、「たくさん祈れば何かに到達できる」という形で言われる。だから真面目な信徒はみな熱心に祈るし、長時間祈るし、大声で叫んだり泣いたり喚いたりしながら祈る。そして何かに到達した気になったり、あるいはいくら祈っても到達できないと自分を責めたりする。

 たくさん祈れば何かに到達できる、という考え方。
 裏返すと、祈らなければ何も得られない、という考え方。
 なんか、仏僧が修行して「悟り」の境地に入る、という発想に似てる気がする。

 クリスチャンの救いの経緯について考え直してみた方がいいと思う。すなわち私たちは「信じた」から救われたのか、あるいは「たくさん祈った」から救われたのか。一方的な恵みによって救われたのか、あるいは自分の努力でそれを掴んだのか。
 さてどっち。

■本当に「足りない」もの

 なんでもいいんだけど、何か到達したい目標を掲げてみる。たとえば、

「誰にでも物怖じしないで大胆に伝道できるようになりたい」
「みんなを感動させる説教ができるようになりたい」
「オリジナルの賛美を作りたい」
「人の心を癒せるようになりたい」

 みたいな目標。
 で、そこに到達できるように、一生懸命祈る。祈りが「足りる」まで。

 でも冷静に考えてみれば、伝道にしても説教にしても作曲にしてもカウンセリングにしても、どれも経験や知識やセンスや資質が絶対的に必要だと思う。家や教会に引きこもって「祈る」だけでできるなら、苦労しない。祈りが「足りる」か「足りない」かの問題ではない。

「祈っていたら突然ピアノが弾けるようになった!」みたいな話を聞いたことがあるけれど、聞いたというだけで、それがどこの誰なのか、いくら調べてもわからない。 「盲目が見えるようになった」「死者がよみがえった」と同じで。

「それは霊の力です」とか言う人がいるかもしれない。霊でも何でもいいんだけど、まずは動かぬ証拠を提示してもらいたい。話はそこからであろう。

 百歩譲って、祈りが「足りた」ら何かに到達できるとしよう。たとえば祈り続けたら、ある時点から急に「大胆に伝道できるようになった」とする。祈りが足りて、「伝道の力」が与えられた、とでも言うような状態。
 しかしその「大胆に伝道できるようになった」は本人の主観にかかっている。到達できたかどうかも、主観にかかっている。もしかしたら、もっともっと大胆にできるのかもしれない。大胆なだけでなく多彩な伝道方法を獲得できるのかもしれない。思いつきもしなかった伝道スタイルを確立できるのかもしれない。可能性はいくらでもある。「大胆に伝道できるようになった」は、単に自分の中で設定した目標を、自分で評価しているに過ぎない。 それが本当に目指すべき到達点だったかどうかの基準はない。自分で決めただけのことだ。

「自分のことだから自分で決めるのは当然でしょう」という意見もあると思う。しかし、問題はまさにそこにある。
 つまり祈りが「足りた」か「足りない」かは、自分で決めているに過ぎない、ってこと。

「自分は祈りが足りない」

 それは神様が目の前にドーンと現れて、「お前は祈りが足りん」とか言ったのではないはずだ。自分でイロイロ考えて、「あー祈りが足りないんだろうなきっと」と思っているだけで。明確な根拠があるわけではない。
 あるいは、自分や人が決めた到達点に達しなくて、「祈りが足りないんだきっと」と思っているだけだ。それを「神様が決めた到達点だ」と断言することはできない。そもそも神様はノルマを課す方ではないから。

 神様は「もっと祈れ」とか「もっと働け」とか「もっと献金しろ」とか強要する方ではない。キリストの言葉もそれを支持している。「あなたの信じた通りにしなさい」
 だから何かが「足りた」か「足りない」かは、あくまで人間の側の視点だ。神の視点を代弁するものではない。おそらく牧師やリーダーたちの判断基準を鵜呑みにしているだけだ。

 その場合、本当に「足りない」のは「祈り」でなく、「よく考えること」だと私は思う。

3 件のコメント:

  1. 「祈りが足りない」
    このように本人が判断するのは、どうしてなのかを考えてみる必要があります。
    そもそも「祈りが足りていない」、あるいは「祈りが足りている」という感覚は、どうして出てきたのかといえば、それを四六時中いう人が、その人のそばにいるからです。
    「Aさんは祈りが足りている」
    「Bさんは祈りが足りない」
    こんなことを毎日のように聞かされていたからこそ、聞いているほうも自然とそういった感覚をもってしまうということなのです。

    創価学会でも「信心が足りない」といいます。「それなら六時間唱題会に出席しましょう」とか、「朝晩きちんと仏壇の前に座って勤行していますか?勤行を怠けているから・・・」となるのです。
    いや、創価学会となると、話はもっとひどいかもしれません。「聖教新聞は一家に一部じゃなくてMY聖教ですよ」とか、選挙の時期になると「勝利しなくてはならないので票集めのノルマを達成しましょう!」となりますので(笑)。

    こうしてみると新興宗教系の仏教とプロテスタントは本当によく似ていると思います。
    興味深いことに、創価学会の人がキリスト教に改宗したというケースをみると、しばしば新興宗教系プロテスタントの信者になっていたりするのです。なぜなのだろう?と不思議に思っていたのですが、これはやはり両者が非常に似通った体質を持っていますので、学会員だった人にとってはわかりやすいということがあるのかもしれません。元学会員だった人にしてみれば、「クリスチャン新聞は一家に一部だけでいいし、選挙の票集めもしなくていいから、こっちのほうが信仰生活が楽だ」と考えているのかもしれませんが(苦笑)。

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  2. ブログ主さんへ。

    最後の段落の、

    >キリストの言葉もそれを支持している。
    >「あなたの信じた通りにしなさい」

    これは具体的に聖書のどこの箇所からの引用ですか?

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    1. ご自分で調べてみることをお勧めします。

      また、聖書は一言や一箇所から何かを論じるより、全体からニュアンスを読み取ることが重要と考えます。この場合で言えば、キリストの一言でなく、彼の言動や行動全体から、彼の言わんとすることを受け止めるべきだと思います。

      そしてその結果キリストは、「山上の垂訓」にみられるような基本的な命令事項(禁止事項)はありますが、それを土台としたうえで私たちが自由に判断すること、選ぶことを良しとしておられるとのだと私は理解しています。

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