「気の持ちよう」と「神の語りかけ」の微妙な関係

2016年9月5日月曜日

「啓示」に関する問題

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■気の持ちよう

 日本語独特の表現かどうか知らないけれど、「気の持ちよう」という言葉がある。物事は「考え方次第」、「捉え方次第」、「気の持ち方次第」でどうにでも変わる、という意味。
 たとえば出がけに雨が降ってきて、「ツイてない」と思うか、「傘を差すのもいいもんだよ」と思うかは、その人の価値観や気持ちや物事への姿勢によって変わる。同じ事象をみても、どういう感想を持ち、どういう心境に至るか(至らせるか)は人それぞれ、自分で決めることができる。それは要は「気の持ちよう」の問題。

例)朝から腹痛。

気持ち①仕事なのに何てこった(真面目系)。
気持ち②よし、会社休める(不真面目系)。
気持ち③深刻な病気だったらどうしよう(心配症系)。
気持ち④何かに注意しろってことかな(スピリチュアル系)。

 というように、個人によって「気の持ちよう」はいろいろある。

 では集団の場合はどうか。
 この「気の持ちよう」は、その人が所属するグループ、所属する集団、所属する文化によって、ある程度似てくる。
 たとえば「毎日電車通勤するサラリーマン」という社会集団にとって、「朝から大雨」というのは好ましくなく、ネガティブな気持ちに傾きやすいだろう。中には喜ぶ人がいるかもしれないけれど、標準偏差的には、ネガティブな気持ちになる人が多いと思う。
 でもこれが田畑で農業を営んでいる集団になると、むしろ好ましい気持ちになるかもしれない。雨が降れば作物が育つからだ。
 だから「朝から大雨」という事象に対して、前者は「朝からツイてない」という「気持ち」を共通して持ちやすい。一方後者は「天の恵みだ」みたいな「気持ち」を共通して持ちやすい。

 つまり、立場や環境、状況によって共通しやすい「気の持ちよう」がある。

■クリスチャン的思考

 では「プロテスタントのクリスチャン」に共通しやすい「気の持ちよう」とは何か。
 それはたとえば、(自分にとって)良いことが起これば「神の祝福だ」と思いやすく、(自分にとって)悪いことが起これば「これは試練だ」と思いやすい、というのがあると思う。それが本当に神からの特別意味のある祝福か、特別に用意された試練か、というのは別にして。

 もちろん全員が全員そう思うとは限らないけれど、わりとステレオタイプな「クリスチャン的思考」というものがあって、みんなそういうのを多かれ少なかれ意識していると思う。

「○○なことがあって許し難いけど・・・、でも許すのが神様の御心ですよね。・・・あの人を許します!」
「神様の導きだと思って〇〇したんだけど、なかなかうまく行かなくて。でも、諦めないで期待し続けることを、神様は願っているんですよね」
「人でなく神様だけを見上げます。それが御心です。そうすれば、どんな状況になっても揺るがされません(キリっ)」

 こういうのは、ある教会群のクリスチャンがいるところならどこででも聞く。異口同音。もちろん内容はそれぞれ事情があって個別性があるんだけど、いわゆるナラティブ・ストラクチャー的な繰り返しの中の1つでもあり、話の種類としては全然珍しくない。

 その証拠に、彼らが披露する「証」は、どれも個人的体験であるにもかかわらず、どこか似たようなストーリーラインに乗っかっていることが多い。
「◯◯という辛いことがありましたが、今はそれも感謝となりました」
 みたいなフレーズ、みんな聞いたことがあるんじゃないだろうか。私はたくさん聞いてきたし、自分でもそういう風に考えることがたくさんあった。

 つまり、いわゆるクリスチャン的思考、クリスチャン的「気の持ちよう」がある。

 それが全部悪いという話ではない。ただ、自分の単なる「気の持ちよう」をそのまま「神からの語りかけ」としてしまうのは、いささか自分勝手な解釈ではないかと思う。自分の「感じた」ことが全てそのまま「神からの語りかけ」だという保証も根拠もどこにもないからだ。

 何かしらの困難に対して、「神が解決して下さるのを待つ」という姿勢もあれば、「祈り通せば勝利するはずだ」という姿勢もあり、また「具体的な解決策に取り組むべきだ」という姿勢もある。他の姿勢もイロイロあるだろう。そういうのは個人の「気の持ちよう」というか、その人の価値観や信仰観、それまでの経験や人から聞いた話、環境や状況、選べるうる手段の数など、複合的な要因から導き出された思考(行動)パターンだと言える。それをイコール「神からの語りかけ」とする信憑性は、どこにあるだろう。「そう信じたい」「そう思いたい」という気持ちはわかるけれど。

 たとえば「○○が導きだと思います」と言っていた人が、結果うまく行かなくて、「違いました。××が導きでした」と言うことがある。でも、「うまく行かなかったから導きでない」と断言することはできない。もう少し続ければ結果は違ったかもしれないし、何らかの行動を起こすことで状況が変わったかもしれない。そういう可能性を挙げればキリがない。そもそも何かが「うまく行くこと」が導きかどうかわからない。むしろ「失敗することが導きだった」という可能性だってある。パウロたちの宣教旅行はどこででも成功したわけではないし、順風満帆だったわけでもない。

 だから私たちは多くの場合、たくさんある可能性の中から、自分にとって都合のいい、信じやすい、受け入れやすい、考えやすい「解釈」を1つ選択しているに過ぎない。それを「神からの語りかけ」と断言するのはおかしいでしょ、という話。

■クリスチャン的思考を形成する、教会の伝統や習慣

 こういう問題の原因は、個々のクリスチャンにあるのではないと思う。原因はもっと大きく、教会自体、教団教派自体、教会の伝統や習慣自体にあると思う。

 以前いただいたコメントで、こんなのがあった。
「○○という奉仕をしたいと牧師に申し出たら、『それが御心かどうか、祈って示されなさい』と言われた」
 これは本当によくある。ある系統の教会群では、何をするにも「御心ならしましょう」という話になる。何をするにも「それが御心だ」という許可が必要なのだ。だからみんな祈って、「これかな」と(自分が)思ったことを「神に語られました」としてしまう。みんな同じことをしているから、ハードルが低くなっている。だから安易な「語られた」が蔓延する。

 その伝統や体制や習慣はなかなか変えられないと思う。だから個人個人が少しずつ意識を変えていくのが大事なんだと思う。
 というわけで、こういう記事を地道に書いているんだけど。

 以上、「気の持ちよう」と「神の語りかけ」を混同してませんか、というお話。

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