自分本位な「伝道者」

2016年8月7日日曜日

教会生活あれこれ

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■福音の「安売り」?

 牧師が講壇で次の発言をしたら、皆さんどう思われるだろうか。

「福音は安売りされない」

 この言葉がどういう意味かというと、まず福音には高い価値(救い)があるということ。これはわかる。
 次に、福音は聞く耳のある者にしか話してやらないよ、聞く耳がなければ意味がないから、ということ。
 つまり、誰にもかれにも福音を話してやるもんじゃない、わかるヤツにだけ話せ、というのが第二の意味。そういう意味の、「安売りされない」

 これを真顔で語る牧師がいたけれど、さてどう思われるだろうか。

  これは先日の「聖霊のゴーサイン」の話にも通じると思う。聖霊が「語れ」という相手に伝道せよ、みたいな話。裏返すと、「語れ」と言われなかったら伝道しなくていい、ということ。話すチャンスがあるかどうかでなく、伝えたいという意思の有無でもなく、「超自然的な選択がなければできない伝道」
 なんじゃそれ。

 たしかに福音(キリストによる救い)は、聞いてすんなり受け入れる人と、何度聞いても受け入れない人とに分かれると思う。パウロもイザヤの言葉を引用して、「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず」と言っている。聞いても理解しない種類の人間がいるよ、ということ。じゃあどうせ理解されないならはじめから話さなくていいか、という話?

 上記の「安売りされない」は、聞いても理解しない奴らには福音はもったいない宝だよ、聞かせてやるまでもないよ、奴らにそんな資格はないよ、ということ。上目線な「選択」がそこにある。語ってあげる相手(すなわち救ってあげる相手)は聞く耳のある者だけだ、という、なにやら選民思想めいた発想だと思う。

 でも現実的に考えて、「聞く耳のある未信者」の皆さんが、教会にやって来て、「どうぞ福音をお語り下さい」と牧師に頭を下げる、なんてことがあるだろうか? 福音の内容どころか、「福音」という言葉さえ知らず、教会の何たるかも知らないのに?

 そんなのぜんぜん現実味のない、自分本位な「伝道」観だろう。
 本来なら、福音は(福音でなくても)語らせてもらう、という姿勢が必要だと思う。相手に時間をとらせているのだから、内容がいくら「素晴らしい宝」だとしても、「聞いてもらっている」という認識をしなければならない。それはクリスチャンとして以前に、人間としての常識だと思う。そして伝道には、その内容もさることながら、語る人間の姿勢とか人格とかが大切になるはずだ。そんな上目線な態度で、いったい何を伝えようというのか。

■安いのはどっち?

 ではそういう牧師の礼拝説教は、どれだけ「安売り」でない逸品なのだろうか。

 これは本人から直接聞いたから話だから間違いないはずだけれど、「はじめの15分は笑わすだけ。そしてキリストの十字架。最後は感動エピソードで心を動かす」というのが彼の説教ポリシーだった。なるほど、はじめのうちは冗談でひたすら笑わせ、次に十字架の話でウルウルさせ、最後はネットや自己啓発本から拾ってきたお涙頂戴エピソードで泣かせ、「イエス様愛します!」でしめる。聖書はさほど開かない。笑いあり涙ありの、エンタメ説教。そういうのが毎週繰り返される。


 結局、牧師自身の話(説教)の方が「大安売り」になってる気がする。


 しかもそれを長年やっていると、ネタが尽きるらしく、同じ話を周期的に繰り返すようになる。それ前にも聞きましたって話が複数出てくるようになり、先が読めてしまう。現在そういう現象が起きている教会の皆さんは、よくよく考えてみた方がいいと思う。日曜礼拝がただの「エンタメ礼拝」になっていないかどうか。あるいは礼拝のフリした「牧師ショー」になっていないかどうか。

■自分本位な「伝道者」

 こういうのは「聖霊のゴーサイン」の話と同様、自分本位な伝道でしかないと思う。「聞く耳のある者にしか語らない」というのは、要するに、拒絶されるのが怖いのではないか。話した結果「救い」が起こらなければいけないと思っているのではないか。あるいは営業マンの営業成績みたいに、「何人に話して何人救われました」みたいな感覚かもしれない。

 いずれにせよ相手に対する気持ちの有無でなく、自分がどう扱われるかが大切になっていると思う。まあそれでも伝道するだけいいのかもしれない。けれど、そういう人に育てられる人がどういうクリスチャンになっていくか、甚だ心配ではないだろうか。なぜならそういう自分本位な「伝道者」の連鎖になりそうだから。

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