「主の導き」を人が「判断」することについて・その2

2016年8月24日水曜日

「導き」に関する問題

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 前回に続いて、「主の導き」について。

 前回は一部で語られている「主の導き」の3つの判断方法と、その判断に含まれる「主観」について書いた。
 今回はもうちょっと突っ込んで書きたい。小難しい話になると思う。

■「主観的判断」のケーススタディ

「主の導き」を主観的に判断するとは、たとえばこんな感じ。

 状況設定。
 ある男性が仕事を辞めて「献身」しようとしていて、「導き」を求めているとする。
 彼はフルタイムで教会で働きたいと願っている。でも問題は、仕事を辞めたら経済的保障を失う、ということ。だから躊躇している。
 それでしばらく祈ったり、聖書を読んだりしていると、「仕事を辞めて献身すべき」という方向と、「仕事を辞めないでも献身できる」という方向の、それぞれを支持する聖書箇所を見つけた。
 前者は大宣教命令とか、マタイ6章33節、Ⅱテモテ2章4節、マラキ3章10節あたり。
 後者は使徒18章3節、Ⅰコリント4章12節、Ⅰテサロニケ2章9節あたり。

 第一のケース。
 その人が独身で、多少貧乏しても自分が我慢すればいいだけの場合、仕事を辞めた際の経済的不安は、初めから低い。また教会が非常に協力的で、彼が教会で英会話教室なりギター教室なりを開くのを応援してくれて(そういう技能があればの話)、なんとなく新たな収入源を得られそうな見込みがあれば、不安はさらに減るだろう。彼はそういうのを見て「状況的に道が開かれている」と判断し、「障害が除かれている」と考えて、また上記の前者の聖書箇所を味方につけて、退職に踏み切る。

→結果1。
 その英会話教室なりギター教室なりがうまくいって大盛況になったら、彼は「仕事を辞めるのがやはり導きだった」と言う。
→結果2。
 教室関係がうまくいかず、どこかでアルバイトをしながら教会で働く(兼業献身)ことになったら、「自分はまだ未熟だから、兼業で働かなければならない、ということを主が教えて下さった。これが主の導きだったのだ」みたいなことを言う。

 第二のケース。
 その人が所帯持ちで、子供がまだ小さく、今の仕事を手放すのが現実的に困難な場合、退職を選ぶには、相当な勇気と覚悟がいる。また奥さんを説得するという難関が待っている。そしてそれがうまく行ったとしても、退職後に控えているのは「なんとかして家族を養い続ける責任」だ。十中八九、彼は「仕事を辞めないでも献身できる」という道を選び、上記の後者の聖書箇所を味方につける。

→結果3。
 特に変化なく生活を続け、教会でもそこそこ働いて、さほど心配なこともない。彼は「これが導きだったんだ」と言う。
→結果4。
 特に変化なく生活を続けるけれど、やはり「献身したい」という思いがある。彼は、「今は献身への祈りを積みあげるための大切な期間なのだ。主は私を、忍耐の道へ導いておられた」みたいなことを言う。

 考察。
 彼らにとっての「導き」とは、自分の置かれた「状況」と、予想できる「見込み」に支配された結果である。人間の頭で考えられる可能性の範囲から一歩も出ていない。そしてそれを支持する聖書箇所を、選択的に、また補強的に使っているに過ぎない。そして選択した結果がどうであれ、もう時間は戻らないし、結果はくつがえらないし、他を選択した場合の結果もわからないから、「これが導きだったんだ」と言うことになる。
 さて、これらの過程のどこに、神の超自然的な、「導き」を啓示するような介入があっただろうか。全部、単なる「主観的判断」で説明がついてしまうのではないだろうか。

■神は合議による決定を良しされる

「主の導き」を判断する3つの方法の、何が問題かと言うと、「主の導きは自分で判断していい」という考え方が根底にある点だ。自分で判断していいから、いろいろな事象を自分なりに解釈していいし、沢山のことを言っている聖書の「都合のいい部分」だけを抜粋して使っていいことになる。その結果についても厳しく吟味されないから、ますます自己判断がまかりとおるようになる。

 またその自己判断を「神の導き」「神の啓示」と言っていい風潮が一部の教会にあって、そこでは神の名のもとに、牧師や信徒が好き放題に言っている現状がある。

 しかし「主の導き」「主の啓示」で大切な視点だと私が考えるのは、たとえば西暦325年に開かれた「ニケーア公会議」のような、多くの関係者が集まって合議する場だ。

 ニケーア公会議では、キリストの「人性」を強調するアリウス派を、異端とする決議がなされた。そして「三位一体」の概念が確立され、正統教理とされた。だから現代の私たちが当然のように「三位一体」とか「キリストは人であると同時に神である」とか言うのは、この会議があったからだ。

 この会議における「人間たちの話し合いによる決定」が、その後のキリスト教の正統教理となった、という点に注目すべきだと思う。つまり、人間の側が話し合って決めたことを、神様は良しとされる、ということだと思う。
 たとえば上記の会議がなくて、一司教とか一司祭とかが「三位一体」を主張しただけだったら、今日のように広く受け入れられなかったかもしれない。

 よく「神の国は民主主義じゃない」とか言って、独裁に走る牧師がいる。そして自分が主張する「神からの啓示」を教会の最重要事項として、信徒に押し付けることがある。カルト化教会の現状だ。けれど、彼が使う「三位一体」というセリフ自体が、彼が否定する民主主義(合議による決定)の産物なのだ。

 たった1人が「特別な啓示」を受けたり、自分勝手に「主の導き」を判断したりするのは、キリスト教のそういう歴史的観点から見ても、「外れている」と私は思う。
 たとえば日本のあちこちの牧師が、「この教会は日本のリバイバルの中心として用いられる」みたいなことを「主に示されている」と言っている。けれど日本全体として考えてみると、あちこちに「中心」があることになってしまう。「神からの啓示」にしては、整合性が取れていないのではないだろうか。それでは神ご自身が整合性のない方になってしまう。はたして牧師たちが正しくて、神が間違っているのか。あるいはその逆か。

 ■「神様導いて下さい」の答えは、たぶん「導いてますけど、何か?」

 こうは書いても、私は「主の導き」を否定する立場ではない。神様はいつも私たちを導いておられる。私たちが願おうと願うまいと、導いておられる。いろいろ悪いことも起こるし、思い通りにもならないけれど、それでも神様は導きは私たちにある。
 しかし「導き」とは、私たちが安易に考えるもの、たとえば「○○を選びなさい」みたいな声が聞こえるとか、心にガーンと示されるとか、そういうこととは根本的に違うのではないだろうか。もしかしたら、そういう風に超自然的に導かれるような非常事態があるかもしれない。しかしそれは非常事態であって、平時のことではない。

「主の導き」とは少なくとも、先に挙げた「3つの判断方法」で、容易に読み解けるものではないと思う。主観的判断が強く影響するからだ。だから「導きは何か」と祈るのでなく、「○○をすべきと判断したから、どうか神様助けて下さい」みたいに祈るべきだと私は思う。

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