「主の導き」を人が「判断」することについて

2016年8月24日水曜日

「導き」に関する問題

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■「導き」の理解の仕方のちがい

「主の導き」については何度も書いているけれど、懲りずにまた書きたい。

 たぶん「主(神様)の導き」については、教団教派によって、理解の仕方が全然違うと思う。大雑把にまとめるとこんな感じ。

①神様は日常生活の細かいことまで具体的に私たちを導いている。私たちは祈りや賛美を通して、それを事細かくキャッチして実行していかなければならない(導き絶対論)。

②神様は「ここ」という人生の岐路において導きを与えて下さる。私たちは祈りや礼拝などを通して、それをキャッチしなければならない。(半・導き絶対論)

③神様は常に私たちを導いておられる。と同時に私たちの自由意志による判断を尊重して下さる。その結果についても導いて下さっている。(自由意志尊重論)

 ちなみにこの順番には意味はない。

 カルト的教会の理解は①と②である。①が重度で②が軽度と言える。ただ「神が個別的な御心(私だけのオーダーメイドの御心)をその都度啓示して下さる」という点においては、まったく同じ。
 ただカルト的でなくても、聖霊派の多くは、①か②の理解をしていると思う。

 一方、リベラルに傾くほど(と一概に言えないようだけれど)、③の理解になる。つまり、御心(基本原則)は既に聖書に示されているのだから、その原則に基づいて自分(あるいは教会などの集団)で判断すべきだ、という理解。「すべてを益にして下さる」という言葉も、自分で判断するからこそでしょ、という理解。

 つまり、①②対③という対立。

 ただこの対立構図にも私は違和感がある。②が完全に否定されて③だけ、というのも考えにくいと思うからだ。

 しかしさすがに①はない。日常生活の細かな部分まで具体的に「導き」を求めなければならないとしたら、現実的には大変なことになってしまうからだ。よく冗談めかして書くけれど、それこそトイレに行くかどうかとか、ランチはどの店で何を注文すべきかとか、そんなことまでいちいち祈って導いてもらわなければならなくなる。「私はそういう風に導かれています」と主張する人もいるけれど、それは突き詰めていくと、呼吸は1分間に何回すべきかとか、今この瞬間に何についてどう考えるべきかとか、そういう生き方をしなければならなくなる。がんじがらめな状況じゃないだろうか。自由というより、むしろ不自由だと私は思う。

■「主の導き」を知る方法?

「主の導き」を判断する「いくつかの方法」を、信徒に教えている教会がある。例によって福音派・聖霊派の教会群だ。
 で、どんな方法を教えているかと言うと、

・御言葉(聖書の言葉)が与えられているかどうか。
・「平安」があるかどうか。
・実行する上で障害があるかどうか(あるいはその障害が減っていくかどうか)。

 を見て判断しなさい、という感じ。
 これはかつて私もまったく同じように教えられ、長いこと実践しようとしてきた「方法」だ。だからよく知っている(なので部外者でなく、「思いっきり中の人」として書く)。

 上記の3つのポイントの問題点、あるいは怪しい点は、「どれも自分の感覚や自分の判断次第で、どうにでも解釈できてしまう」という点だと思う。

 たとえば「平安」の有無は、ある事象に対してどれだけ安心感を持つか、あるいは不安感を持つか、という話だと思う。でも心配症な人は何がどうなっても、たとえ御使いが現れて「大丈夫だよ」と言っても心配なものは心配だろう。逆に楽天的な人は周囲がいくら心配してもイージーゴーイングに構えている。またそれまでの経験や知識から、まったく同じ事象を見ても、そこに安心材料を発見する人もいれば、不安しか見つけられない人もいる。
 つまり「平安」の有無とは、その人の性格とか気質とか、知識とか経験とか、置かれている環境とかによって左右される。単純に神からの(超自然的な)平安、とは言い切れないと思う

 また「よくわからないけど安心感があるんです。だから主からです」と言う人がいるけれど、それは神という超自然的な存在に対する「期待感」が根底にあるからだと思う。つまりある事象にのみ言えることではないのではないか。またそれはあくまで自分の側からの「期待感」であって、神の側から特別に与えられた、ある事象に対してのみ有効な「平安」、とは言い切れないと思う。

 また「実行するうえでの障害」の有無も、これまた個人差がある。たとえば「仕事を辞めて開拓伝道を始めるべきかどうか」と悩んでいる人がいるとして、そこにはいろいろな障害が考えられる。たとえば収入はどうするのか、生活は成り立つのか、どこに住んだらいいのか、どこでどういう対象に伝道すればいいのか、自分のマネジメント能力は大丈夫なのか、人が集まった場合の会場はどうしたらいいのか、とかいろいろ。でもそういうのを想像してみて「障害が大きすぎる」と感じる人もいれば、「なんとかなるっしょ」と軽く考える人もいる。だから「ある選択をするうえで、障害が減っていって選択しやすい状況になった」というのも、人それぞれの「見方の問題」が多分に含まれる。単純に「神様が状況を操作して下さった」とは、言い切れないと思う。

 だから上記の3つのポイントは、あくまで「主観」に基づいている。自分がどう感じたか、どう考えたか、状況をどう見たか、行けると思ったか行けないと思ったか。
 そういうことで「これはゴーサインだ」とか「今はまだ祈りを蓄える時期だ」とか判断すること自体、「主観」でしかないと思う
 あるいはそれを「神様からのサインだ」と主張するのもいいだろう。けれど、「主観」が混入している可能性を否定することは、できないのではないだろうか。

 というわけで次回に続く。

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