2016年8月28日日曜日

「慈善活動」に見える「偽善活動」

■「エセ・チャリテー」

 今年も『24時間テレビ』の季節がやってきた。この記事を投稿する頃には今年の放送は終わっているけれど、私はもう何十年も同番組を観ていない。単純に興味がないからだ。

 同番組に対する意見はいろいろあるけれど、「エセ・チャリテーだ」とか「障害者を感動のダシに使うな」とかの批判がよく目につく。
 それについてあえて書くとしたら、欧米諸国と違って出演者に報酬が支払われるのが問題視されているけれど、べつに横文字の「チャリテー」を運営方法まで含めてそのまま輸入する必要はないと思う。つまり「日本式チャリテー」みたいなガラパコス的なものがあってもいいと思う。実際に毎年何億もの寄付金を集め、福祉車両などを方々に寄贈しているのは事実なわけで、その意味で「やらない善よりやる偽善」という意見は、もっともな気がする。テレビ局の肩を持つ気は全然ないんだけど。

 ただそれでも、障害者の扱い方には疑問がある。「障害者は頑張らなければならない」みたいな空気になるのは、良くないと思うからだ。もちろん努力するのは良いことだと思うけど、「だからお前も頑張れ」みたいな努力の強要になるべきではない。それは巡り巡って、「健常者も頑張らなければならない」「みんな頑張らなければならない」みたいな話にもなりかねない。

 それに対抗してかどうか知らないけれど、NHKの『バリバラ』という番組が「感動するな! (障害を)笑ってくれ!」というコンセプトで始まっていて、大変興味深い。当事者である障害者の方々が出演していて、当事者だからこその視点で(自虐的に)語っているけれど、大変勉強になる。

■キリスト教会と「偽善」

 ところで「やらない善よりやる偽善」と書いたけれど、これはキリスト教会の場合は、(ガラパコス的としても)当てはまらない理屈だと思う。『24時間テレビ』は「動機」より「実益」に意味があっていいけれど、キリスト教会の場合は「実益」より先に「動機」が大切になると思うからだ。

 いろいろな震災や自然災害が起こるたびに、「活動的な」キリスト教会が、被災地支援に乗り出す。それはそれで良いことだと思う。けれどその活動を長い目で見ていくと、いろいろ疑問符が付くことがある。
 たとえばこんなケース。

①被災者の「心のケア」のため、現地でコンサートを開きましょう。
②そのためにはスピーカーやPA機器などの機材が必要です。その購入に支援金を当てましょう。
③ハレルヤ。素晴らしいコンサートでした。皆いやされたと信じます。購入した機材は、とりあえず教会に保管しておきましょう。
④支援活動も落ち着いてきました。そういえば教会の音響機材も古くなってきました。保管してある機材を使いましょう。もう被災地では必要ないでしょうから。

 こういう話は教会内では平然とされるけれど、何故か、外部向けにはされない。会計報告するにしても「支援活動費」みたいな大きな括りで出されて終わる。それはそうだと思う。自分が被災地支援のために教会にお金を送ったとして、それが高価なスピーカーに変身し、被災地で数回使われただけで教会堂に収まっているとしたら、きっと詐欺的なものを感じるだろうから。

 また他にも、被災地支援に行ったスタッフの飲食費や宿泊費、現地用に買った長靴とか防寒具とか、そういうのも平気で支援金から拠出する現状がある。「ボランティアで行く」と言いながら、実際のところボランティアではない。
 それはグレーゾーンというか、考え方によっては白になるのかもしれないし、上記の教会はそう主張するだろう。しかしそうであるなら、支援金を寄付した人全員に対してその現状をありのまま報告しても全然問題ないはずだ。しかし実際にはそうできない。そこに偽善がある。

 これは「エセ・チャリテー」と揶揄される『24時間テレビ』よりもタチの悪い偽善だと思う。何故なら本人たち(牧師やリーダーたち)は自分たちのことを善意のカタマリみたいにアピールして、憚らないからだ。

 アピールと言えば、東日本大震災の時に「ボランティアとして現地に入った一番の教会」であることをいちいちアピールする牧師がいた。本当に一番だったかどうか今更確認しようがないし、そもそも一番か二番かなんてどうでもいいことなんだけど。それをアピールする「動機」はいったい何なのか。

■ある教会のフリーマーケット

 話がちょっと変わるけれど、ある教会で毎年恒例の行事としてフリーマーケットが行われていた。

 信徒の家庭に眠っている使わない物、衣類とか雑貨とか、玩具とか家電製品とか、そういうのを持ち寄ってもらい、教会をあげてフリーマーケットを行うのだ。ただ教会は場所を提供し、売り上げを集計するだけで、フリーマーケットの宣伝から商品の管理、販売、会計まで全て信徒たちで行う。やる前に目標が掲げられて、たとえば1日で売り上げ5万円、みたいな設定がされる。
 で、1日終わって売り上げが集計され、お楽しみの結果発表の時間。毎年やってるから大体目標通りに行くんだけど、売り上げ何万円でしたー、やったー、ハレルヤー、みたいなことになる。がしかし、その売り上げ金がどうなるかというと、これがわからない。「教会の必要のために使われる」みたいに言われるだけで、内訳は公表されない。信徒の側も、お金のことであれこれ言うのも憚られるので、結果何も言わない。

 と、いうことが毎年繰り返される。
 一般にフリーマーケットは、参加者は参加料を払うのみで売り上げは丸々もらう仕組みなんだけど、その教会では完全なるタダ働きになってしまう。なんだか不思議な「フリーマーケット」であった。

■キリスト教会で問われるべき「動機」

 テレビ局が多少の偽善を含みながら慈善活動をするのと、キリスト教会が偽善を隠しながら慈善活動をするのとでは、全然意味が違うと私は思う。テレビ局が「エセ・チャリテー」をしたところで放送倫理に触れるわけではないけれど、教会は「神の愛」や「無償の奉仕」を体現するのが使命であって、その根幹に偽善があるのは致命的だと思うからだ。

 その意味で、先の「被災者の心のケアのためのコンサート」と称して支援金(寄付金)で音響機材を購入するのは、確信犯としか思えない。はじめから自分たち(教会)のニーズを見据えての行動だ。何故なら1度や2度のコンサートなら機材なんかレンタルで済むからだ。高い費用をかけて購入する必要などない。仮に購入するなら、使用後は現地の教会や施設へ寄贈するのを前提にするのがスジだけど、そんな考えもない。そこに偽善がある。

 そもそもコンサートする必要があるのか、という話でもある。「賛美の歌だから人を癒せる」とか「福音が語られるから人を救える」とか単純に信じているのかもしれないけれど、被災して大変な時に、誰が素人の歌を聴きにわざわざ遠い会場まで行くだろう。まずいないと思う。
 実際、高い費用をかけて立派な機材を購入して開催した「復興支援コンサート」は、ほとんど知り合いしか来なくて、広い会場がガラガラだった。誰もそんなこと追及しないけれど。

 だからその行動の動機は何なんだ、という点に話は帰結すると思う。本当に被災者のことを思って、無償の奉仕の気持ちでしたことなのか。あるいは最終的な教会の利益を考えてのことなのか。
 で、その答えは結果をみれば明白となる。いくら綺麗な理由を並べ立てたとしても。

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