ウェーイでノリノリな教会の雰囲気について・その2

2016年8月20日土曜日

教会生活あれこれ

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 前回に続いて、ウェーイでノリノリな、一部の教会の雰囲気について書きたい。
 おもに若者についての話になる。

 賛美の時なんかに、ウェーイとかヒャッホーとか歓声が上がり、みんなして飛び跳ねて踊って、「熱く」賛美する教会がある。会場自体が、照明グルグルでバンドはドンチャンだから、ウェーイな雰囲気になるのを大前提としている。牧師もユースパスター(←専門用語)も、「主に喜びの声をあげよう!」とか言って若者たちを煽る。だからウェーイって飛び跳ねて賛美するのがスタンダードであり、信仰的であり、「若者らしい」ってことになる。そうできない若者は信仰的でなく、若者らしくなく、何か問題があるとされる。ぶっちゃけ前者は教会内では「強者」、後者は「弱者」として扱われる。

 いくら牧師が講壇で「あなたはそのままでいいんです」とか「そのままで愛されているんです」とか言っても、いざとなると、若者たちはウェーイってなれるかどうかで判断される。

 と、いうのがウェーイな若者向けの教会の現状である。以上、前回のまとめ。

■1つしかない「成長」と「若者像」

 こんなことがあった。

 若者向けのライブが企画されて、教会の中高生たちが中心になって運営することになった(訓練ってやつ)。賛美だけでなく、ダンスとか劇とかゲームとか、若者受けしそうな演目をふんだんに交えたライブだった。それぞれ担当に分かれて、準備が始まった。

 ライブの司会を誰にするかという話になったとき、牧師がしゃしゃり出てきて、独断で司会を指名した。Aさんという女子だった。みな驚いた。Aさんも驚いた。なぜなAさんは、最も司会に向かないタイプだったからだ。

 Aさんは人前であれこれしゃべるタイプでなく、小道具を作ったり料理を作ったりという裏方が向いている人だった。本人もそういうのが好きだった。だから司会に選ばれて心底嫌だったと思う。というのは、やはりウェーイなライブになるのが前提だったので、当然ながら司会者に求められるのは、ウェーイでノリノリでハイテンションなパフォーマンスだったからだ。でもAさんは完全にその対極にいる人だった。彼女が弾けた感じで司会をするなんて、誰にも想像できなかった。

 当然ながらAさんは嫌がった。すると牧師が怒り出した。「みんな犠牲を払って奉仕してるんだよ? なんでAだけ捧げられないの? これは自分の殻を打ち破るチャンスでもあるんだよ?」

 要するに牧師の考えは、内向的なAさんの内面にブレイクスルー(なにそれ)を起こして、「よりよいクリスチャン」として成長できるチャンスを与えてあげよう、みたいなことだった。

 なんだかなあ。

 要は、みんなの前でウェーイって弾けることが良いことであり、成長であり、信仰的な「若者像」なのだった。その牧師によると。弾けられないのは自分の殻に閉じこもっているからであって、成長していない証拠とされた。多様性なんか関係ない。その一つの若者像にだけ価値があり、そこへ向かうことだけが「成長」とされる。

 でも外交的か内向的かは優劣の基準で語るもんじゃない。性格傾向の違いでしかない。他にもテンションの高低とか、声の大小とか、感情表現の有無とか、そういうのは人それぞれの個性であって、どれが優れているとか劣っているとか、そういう話ではない。

 ちなみにAさんは超真面目な人だったので、嫌々ながらも結局司会を引き受けた。そして「訓練」と「成長」のため、司会を頑張った。無理して弾けて、ノリノリになって、ウェーイってなって、痛々しいくらい頑張った。でも今思うとそれは「成長」なんかでなく、単に牧師の期待に応えただけだった気がする。そしてブレイクスルーなんかでなく、牧師好みの人間に変えられていっただけだった気がする。自分の自然な有り様に逆らって。

■なんとしても「ウェーイ」に持ってく

 ところで、ウェーイな教会であっても絶対に避けられないのが、「ウェーイってできない事態」だ。たとえば信徒が重い病気になって入院したとか、突然の不幸があったとか、教会に非常事態が起きたとか、そういう深刻な場面になると、さすがにノリノリでウェーイとは行かない。ヒャッホーは鳴りを潜めて、深刻に祈ったり、神妙な顔して話したりすることになる。

でもウェーイな教会は、あくまでウェーイしなければ気が済まない。礼拝の中で深刻に祈ったり泣き叫んだりしても、終わったら「主の勝利! ハレルヤ!」ってなり、最後はやっぱりウェーイとかヒャッホーとかで礼拝を閉じる。そういうケースを沢山みた。どんなに悲惨な事態で、解決が見えなくても、「主が勝利をとられたんだから、悲しんではいられない」みたいな理屈で、ヒャッホーしだす。なんだか、現実をちゃんと見ているのか見てないのか、よくわからない。それが信仰だという意見もあるかもしれないけれど、必ずウェーイに持っていかなければならない理由なんてあるのだろうか。「勝利」や「希望」を現すのは、ウェーイだけでなく、もっと静かな、内省的な形だってあると思うのだけれど。

■自由というより不自由

 前回も書いたけれど、ウェーイやヒャッホーそのものが悪いという話ではない。嬉しくてたまらなくて、ウェーイってしたくなる時もあるだろう(私個人はどんなに嬉しくてもウェーイとはしないけど)。でもウェーイ「しか」なくて、あるいは最後はウェーイで閉めなければならなくて、他のいろいろな表現方法を廃するのは、偏りすぎだと思う。そもそも何らかの感情表現をいつもいつもしなければならない、ということでもないと思う。もっと落ち着いた、あるいは冷静な形で礼拝を閉じたっていいと思う。礼拝の閉じ方に優劣とかあるわけでもあるまいし。

 むしろ必ずウェーイしなければならない、となることで、逆にウェーイに縛られ、自由をなくしていくこともあると思う。ちょうどAさんが嫌々ウェーイなノリの司会をして、でもそれがAさんに自由や解放を与えたかというと、全然そんなことなかったように。

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