ウェーイでノリノリな教会の雰囲気について

2016年8月17日水曜日

教会生活あれこれ

t f B! P L
 昔見た動画を探したけれど、見つからなかった。こんな内容だった。

 たぶんアメリカの、とある運動会。中学生くらいの子供たちが徒競走をしている。観客席では父兄たちが歓声をあげて応援している。走っている小太りの男子(たぶんダウン症)が転んでしまい、取り残される。めげずに立ち上がってまた走り出すと、なんと一緒に走っていた子たちが、途中で彼を待っていた。そして皆で手をつないで並んで走り、一緒にゴール。転んだ子も転ばなかった子も皆1位。転んだ子の両親がそれを見て、感涙しながら拍手を送る。

 障害者を思いやる子供たちの素晴らしさを称えたいのか、障害者と健常者が共存していく大切さを訴えたいのか、あるいは競争に勝つだけが大切なんじゃないよ、と訴えたいのか。いずれにせよメッセージ性の強い動画だった。日本でも、優劣を意識させないために徒競走の順位付けをしない学校があるとかないとか、ちょっと都市伝説的な話もある。それと同じようなメッセージを私は感じた。

  競争原理こそ資本主義の根幹だと思うので、それを否定するのは、資本主義の自己矛盾のような気がする。けれどそれも一つの意見として受け入れられるのがまた、資本主義的な姿勢であろう。
 ただ私個人としては、転んだ子に合わせて皆で並んでゴールするのが「素晴らしい」なら、一切の競争を廃さないといけないし、競争を廃するなら、「敗北」による劣等感を遠ざけるだけでなく、「勝利」による優越感や自己効力感をも遠ざけることになるので、結果的に全体のクオリティが下がっていくと思う。つまり負けて悔しいから頑張ろうとか、努力の結果を体感できたから次も頑張れるとか、そういう健全性や成長性を失ってしまうと思う。
 またそういうPRにわざわざ「障害者」を使うセンスが、よく理解できなかった。

■教会で耳にした、同じような話

 ある聖霊派の教会で、若者向けの集会があった。
 若者向けの先進的な教会だったので、会場は照明がグルグル回り、バンドがドンチャンやる感じで、大多数の若者はノリノリで、飛んだり跳ねたり踊ったりしながらウェーイな「賛美」をしていた。でも何人かの子たちはそういう雰囲気に乗れず、立ち尽くしていた。まわりで大勢が飛び跳ねたりヒャッホーしたりして騒いでいたから、相当居づらかっただろう。彼らは明らかにマイノリティだった。

 好みやテンションは人それぞれだから、元気な賛美だからといって、必ずしも飛び跳ねてヒャッホーする必要はない。神様はそういうところを見ていない。けれどまだ若く、セルフイメージが不安定な年代にとって、マイノリティでいることは辛いだろう。大騒ぎするのがスタンダードな場面で、そうできない自分自身に、劣等感を抱くのも容易に想像できる。

 で、集会後。主要な若者たちが集まって、反省会を開いた。そこで出た意見の1つが、そういうマイノリティの子たちについて。
「私たちがジャンプして賛美すると彼らが居づらいだろうから、全員ジャンプしないことにしたらどうか」

 つまり、ジャンプして賛美できない子に合わせて、全員ジャンプしないで賛美しよう、ということ。転んだ子と一緒に走って、一緒に並んでゴールしよう、ということ。

 その意見はちょっと注目され、牧師も褒めていたけれど、最終的には「みな自由にすべき」ということで却下された。私は却下されて本当に良かったと思った。もし本当に全員がマイノリティに合わせてジャンプしなかったら、もともとジャンプしない子たちは、それを「ジャンプしない自分が悪いんだ」「自分がみんなに迷惑をかけた」と思って余計に居づらくなるだろうから。

■「強者」の一方的な善意

 こういうのは、マイノリティや弱者に対する「理解」に見えた「無理解」ではないかと思う。
  少数派であること、スタンダードでないこと、いわゆる標準に「達していない」こと、大勢がしていることを「できない」こと、そういうのを殊更に「かわいそう」「同情すべき」「助けてあげるべき」とするのは根本的には善意だと思うけれど、受ける側からすると「そうじゃない」ということがある。

 うまい例えかどうかわからないけれど、普段メガネをしている女子がたまたまメガネをしないでいると、まわりから「メガネしてない方が可愛いね」と言われることがある。まわりは褒め言葉として言っているんだけど、本人からしたら「いやいや、メガネしてる自分だって自分なんだけど」とちょっと複雑だったりする。

 あるいは「鬼ごっこ」で、まだ年少だったり足が遅かったりで明らかに不利な子を「味噌っかす」と呼び、「捕まっても鬼にならない」という特別ルールが適用されることがあったと思う。それは根本的には弱者に対する配慮なのだけれど、本人からすると完全に「蚊帳の外」で、はっきり言ってつまらない。不利でもいいからみんなと同じルールで遊びたい、というのが正直なところだろう。

 そういうのは強者の側の「一方的な善意」であることが多い。つまり、独りよがり。

 先の教会の例で言えば、「飛び跳ねて賛美すること」に絶対的価値がある、という「決めつけ」がある。だから飛び跳ねたくない子たち、飛び跳ねる必要性を感じていない子たちは一方的に「弱者」の側に立たされて、「全員ジャンプしないことで合わせてあげよう」みたいなトンチンカンな「強者の配慮」を受ける羽目になる。でも彼らの本当の戦いは、「飛び跳ねるか飛び跳ねないか」でなく、「飛び跳ねない」という選択を気兼ねなくできるかどうかである。つまり「強者」と思っている連中に、「ぜんぜん強者でない」と突きつけることである。

■教会で決めつけられた「若者クリスチャン」の理想像

 べつにウェーイなノリで飛び跳ねて「賛美」することが悪いとは思わないし、ヒャッホーでも何でもいいんだけれど、そういう「ノリ」こそが信仰的だとか、霊的だとか、「聖霊の喜びに満たされている」だとか、そいうことではない。ダビデが狂人みたいに踊り狂ったという箇所「だけ」取り挙げて、だから「踊り狂って賛美することが聖書的なんだ」とするのは極論であろう。聖書に登場する人物が全員例外なく「踊り狂って」賛美していたなら話は別だけれど、そんなこと書いてない。

 でもそういう価値観が、現代のクリスチャンの若者にけっこう蔓延している気がする。「ノリノリ」で「生き生き」した感じをアピールしないと、信仰的とか霊的とか認められないから、素の自分をちょっと捨てて、無理にウェーイってしている部分があると思う。しかしいつもいつもそうできるわけではないから、葛藤もするけれど、かと言って牧師や先輩にそれを相談することもできない、という状態(誤解のないように書いておくと、それは若者たち自身の問題でなく、そういう雰囲気を作っている牧師や教会の方にある)。

 それに関連した印象的な場面があって、今でもはっきり覚えている。
 やはり若者向けの賛美集会なんだけど、その集会の参加者はけっこう幅広い年齢層だった。上は高校生から下は幼稚園児まで。当然ながらノリノリな雰囲気だった。で、明らかに乗れてない、恥ずかしそうにしている男子高校生が数名いて、彼らは後ろの方で幼稚園児たちの面倒をみていた。「ほら、賛美するんだよ」とか「飛び跳ねてごらん」とか幼児に声をかけていて、はじめは面倒見がいいんだなくらいに思っていたけれど、後になってその真意に気付いた。彼らは自分自身が飛び跳ねて賛美できないから、「幼児の世話をする自分」を見せることで、それを免れようとしていたのだ。その証拠に、賛美が終わると幼児の面倒なんか全然見ていなかった。

 でもそれは、彼らが真意を隠しているというより、そうせざるを得ない雰囲気が集会にあった、ということだと思う。つまり「ノリノリで飛び跳ねて賛美するのがスタンダードだろ」という雰囲気が。

■『シン・ゴジラ』に見る日本人のスタンダード

 最後にくだらない話で終えるのだけれど、映画『シン・ゴジラ』を観た。
 内容には触れないけれど、日本政府と自衛隊と関係諸機関が力を合わせて頑張って、東京を襲う「巨大不明生物」(ゴジラ)と対峙する話。
 で、いくつかの作戦を展開するんだけど、悉く失敗してしまう。そしてタイムリミットが迫る中、最後の作戦に挑む。結果ギリギリのところで成功するんだけど、その時のみんなの反応が、一斉に「はぁ・・・」という溜息なのだった。これはすごいリアリティだと私は思った。

 これがハリウッドのパニック・スぺクタクル映画だったら、ミッションルームで固唾をのんで見守る関係者らがいて、作戦成功とともにウェーイってなって、拍手したり握手したりの大騒ぎになると思う。でも日本人の集団だとそうはならない。もちろん今はアメリカナイズが進んでいるから、ウェーイってなる人も少なくないと思う。けれどあくまで日本人のスタンダードはこの「はぁ・・・」という溜息の方だと私は思った。

 だから教会の賛美でウェーイってなるのはあくまで価値観の1つであって、それだけが聖書的なのでなく、またそれは必ずしも日本人の感覚に合っているわけではない。無理にウェーイとかヒャッホーとかする必要ないし、そうできない(しない)ことに負い目を感じることはない。といことをヒャッホーする側もしない側も共通認識して共存するのが一番いいのかもしれないけれど、さてそこに至るのもまた大変な道のりだろうとは思う。

QooQ