未信者をどう扱うかに、クリスチャンの本質が現れると思う、という話。

2016年3月19日土曜日

雑記

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 最近考えさせられることがあった。一部のクリスチャンにみられる、未信者の扱い方のひどさについてだ。

 たとえば以前にも書いたけれど、ある牧師は、日常的に「所詮ノンクリは・・・」「ノンクリなんてそんなもんだ」という言い方をしていた。未信者を明らかに蔑視していた。
 だからそこの信徒にもそういう考え方が伝染していて、必要以上に未信者を避けるというか、「別物扱い」するというか、馬鹿にするというか、そういう態度が見て取れた。
 それで「伝道しよう」と言うのだから、どういうことになるか、おわかりだろう。

「福音を、伝えてあげよう
「恵みを、与えてあげよう
どうせわからないだろうけど、教えてあげよう」

 みたいな感じ。
 特に「霊的」を標榜する教会だったから、「自分たちはすごく霊的で霊的なことがよくわかっている」のに対して、「未信者は霊が死んでる状態だから何を言ってもわからない」というのが(教会内の)一般的な理解だった。

 だから彼らにとって福音伝道が困難なのは、福音を宣べ伝える自分たちの責任でなく、「霊的なことが全然わからないノンクリ」の責任だった。そこを何とかして伝えようとしている自分たちの努力や功績や犠牲は大きいのだけれど、いかんせん、結果が伴わない。それは一重に、「霊的なことが全然わからないノンクリ」のせいだった。そのせいで伝道が進まない。そして信者が増えない。だからいつまで経っても教会に来るメンバーが変わらない。「霊的なことが全然わからない未信者」のせいで。

 でも現実問題として、伝道が全然進まないのである。教会員数は何年経っても同じだった。「24時間の礼拝」とかいろんな事業が始まって一時期頭数が増えたけれど、それは未信者が入信したからでなく、活発に活動している教会だという噂を聞きつけたクリスチャンが集まってきたからに過ぎない。

 だからその教会の「福音伝道効率」で言えば、年間0%に近かったはずだ。

 ということは、霊的かどうかとか、聖霊が働かれるかどうかとか、そういうことを抜きにして(それらについては十分に頑張っていたはずだ)、ちゃんと他の原因について考えなければならなかったはずだ。日本中の教会の伝道効率が0%なはずはなく、増えているところは増えている。もちろん全国的に状況は厳しいし、いろいろ難しいのは事実だと思う。でも増えている教会もあるということは、「未信者の霊的無理解」は絶対的障壁ではないということだ。でも何年も同じことを繰り返しているのだから、ちょっとは考えを改めてもいいはずだった。いつまでも「霊的」のせいにだけしていても、何にもならない。

 で、私が根本的に問題だと分析するのは、その教会の未信者に対する高飛車な態度だ。かつて私自身もそうだったから偉そうなことは言えないのだけれど、未信者を別世界の、我々とは全然別種の、下等な生物みたいに思っていたら、そもそも伝道などできない。そういう態度は言わなくても表に出てしまうから。人生経験をある程度積んでこられた方なら、そういうことがおわかりだと思う。

 想像してみてほしい。街を歩いていたら、見知らぬ人に突然声をかけられる。すました笑顔で彼(彼女)はこっちを見ている。そして「哀れなあなたに大切なことを教えてあげますけど」みたいな雰囲気で話しはじめる。 あなたは最初から最後まで、あまり良い心地がしない。それは話の内容の問題ではない。まして福音そのものの問題でもない。相手の言い方や態度の問題なのだ。書かれた文章だと伝えられないけれど、たとえば「あなたを愛します」という台詞も言い方次第でいろいろなニュアンスを含む。言い方次第では、それは必ずしも「愛」を表す言葉にならない。

 あるいはそういう小難しい話でなくても、近所のコンビニの店員さんの態度を見れば、好感を持てる人と持てない人とがいるのがわかるでしょ。店員が何も言わなくても、その表情やしぐさや動作から、その人となりがイロイロ伝わってくる。いわゆるノンバーバルなコミュニケーションってやつ。

 たとえばある商品がある。素晴らしく良い商品で、今すぐにでも買いたいとあなたに思わせるに十分な魅力がある。しかしそれを紹介するセールスマンが、どうにも鼻持ちならない態度で、「売ってやってもいいけど」みたいなことを言う。説明もいちいち上目線だ。あなたはその人から買いたいだろうか。少なくとも喜んで買いたい、気持ちよく買い物できた、とはならないだろう。

 だから未信者の人に対する横柄な態度とか、下等扱いする態度は、絶対に見直すべきだと私は強く思う。だって同じ人間なんだし、クリスチャンだからって何も変わるところがないんだから。

 確かに聖書を見ると「聖なる国民」みたいな表現があって、なにか特別な存在になった気がするかもしれない。けれど私たちはこの地上に立って、現実社会の中で生きているのだ。宙を浮いて何も食べず排泄もしないで生きているのではない。言い換えると大勢の未信者の人たちの中で、いろいろな人たちのいろいろな仕事の恩恵を受けながら、生きているのだ。水道から毎日清潔な水が出るのも、トイレが毎日詰まらず使えるのも、雨が降っても道路が冠水しないのも、テレビで天気予報を確認できるのも、電車が恐ろしく定刻通りに動いてくれるのも、誰かの仕事のおかげなのだ(ジョージアのCMではないけれど)。

 クリスチャンだけがなぜか尊い存在みたいに考えられる雰囲気が、多くの教会にある気がする。けれど神様から見たら全ての人(信者・未信者関係なく)が尊いのであって、滅びてほしくない存在なのだ。神が愛しているのは信者だけではない。すごく極悪に思える人だって神は同じように愛しておられる。

 あなた(あるいは私)と超極悪人との違いは何か。答えは「何も違わない」だと私は思う。ただ神を先に信じたというだけだ。そしてそれは、現時点において、何か決定的な違いを生んでいる訳ではない。私は日本の刑法に触れたことはないけれど、それでも極悪人の素質はあり、極悪人になる可能性はある。いやもしかしたら、既に極悪人なのかもしれない。そう考えるなら、どうして未信者の人に対して偉そうに何かが言えるだろう。少なくとも私には言えない。

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