2016年3月14日月曜日

カルトっぽい教会を離れた後の話・まとめ

「カルトっぽい教会を離れた後の話」と題してシリーズで書いてきた。

 トピックごとに書いてきて、今のところ書き尽くした感がある。と言ってもまだまだ問題の全容を明かせたとは思えていないし、ちゃんと正確に伝えられたという自信もない。細かい部分で全然触れていないこともある。だから今後も、この問題には取り組み続けるべきだと個人的には思っている。いつかもっと明確に、簡潔に語れるようになるかもしれない。

 とはいえ、このシリーズはここらで一旦区切りたい。だから今回は、今までのまとめ的に書いてみる。今までのイロイロを踏まえて、じゃあクリスチャンってどんな態度でいたら良いんだろう、どうやってカルトっぽい教会を見分けたらいいんだろう、みたいな実践について、自分なりに書いてみたい。

 もちろんこれは信仰的虐待を経た私が「こうありたい」と考えることであって、全てのクリスチャンに当てはまるものではないかもしれない。だから参考にしていただければと思う。

 あるいはこれは私自身の反省である。もし時間を戻せたら、今度は何を選ぶだろうか。過去の自分に会えたら、何と言って警告するだろうか。そういうことを考えながら書いてみたい。

・もっと人格をみるべきだった

 牧師であれ信徒であれ、まわりの人たちの人格にもっと注意したかった。能力とか、見た目とか、立場とか、持ち物とか、そういう「表面」を気にするのはあまり意味がなかった。その人の本質は、そこには現れていなかった。

 人の本質とは普段は隠れていて、見えない。すごく正直な人なら前面に出しているかもしれないけれど、そういう人は少ない。大抵の人は本質的な部分を隠している。もっとも「隠している」と言うより、「あえて出していない」と言った方がいいかもしれない。

 いずれにせよ人の本質は普段は見えない。でも完全に隠れているのでなく、いろいろな場面で、細かいところに滲み出ている。言葉の端々とか、ちょっとした表情とか、しぐさとか、物の扱い方とか、そういうところに本質の「影」が現れている。
 だから誰かについて判断する必要がある時は、まずはじっくり観察してみたい。いろいろな場面を見てみたい。緊急時とかストレス時とかはすごくいい。普段見せない姿が見えるから。

 こう書くと「それは人を疑えってことですか」と言われるかもしれない。その通り。人を疑ってかかることを私は言っている。クリスチャンなんだからまずは信頼しないと、と言う人は、たぶん教会であまり嫌な思いをしてこなかったんだと思う。でもその態度は聖書に反している。聖書が言っているのは「ニセモノに警戒しなさい」だからだ。神様は信頼すべきだけれど、人は無条件に信頼すべきでない。ニセモノは「本物みたいに見える」から問題なのであって、はじめからウソっぽければ誰も騙されない。

 だから牧師だからとか、信仰的だからとか、人を大切にしているからとか、そういう「見える姿」で判断するのは良くない。問題は見えないところ、見えづらいところで何をしているか、にある。


・人をどう扱うかをみるべきだった

 これは人格をみるうえで大切なことだったと思う。教会であれ、牧師であれ、先輩であれ、誰であれ、「他人をどう扱うか」はすごく大切だ。その人の本質は、そこに一番よく現れる。
 普段キレイ事ばかり言う人、親切な人、愛深く見える人が、そのまま「良いクリスチャン」なのではない。そういう人は非常時に大化けする可能性がある。普段は聖人君主に見える人が、すごく大変な状況になった時に眉間にシワを寄せて、物に当たったり子供に暴言を吐いたりするのを見たことがある。そういう人は「たまたまヒステリックになってしまった聖人君主」でなく、「聖人君主のツラしたヒステリックな人間」でしかない。

 少なくとも私が知っている「良いクリスチャン」は、普段から善人ぶろうとしない。そして自分自身が辛くて苦しくて困難で大変な時には、弱いところを見せる。でも人を傷つけようとはしない。人を貶めようともしない。自分が辛くても、他者を大切にしようとする。少なくとも率先して暴言を吐くことはない。

・クリスチャンでない友達をもっと大切にすべきだった

 私の教会では、クリスチャンとして熱心であればあるほど、「この世」とか「ノンクリ」とかから遠ざかっていく傾向があった。そしてそれは物理的な距離というより、精神的な距離であった。だからクリスチャンとしか付き合わなくなるし、自ずと活動範囲が狭まくなった。

 しかし教会が解散し、いろいろ大変だった時、私を助けてくれたのは、むしろクリスチャンでない人たちだった。 もちろん心あるクリスチャンの方々の助けもいただけて感謝だったけれど、大きかったのは未信者の方たちだった。私は教会員として熱心だった時に、過去の友人関係をほとんど断ち切ってしまった。失礼なことも沢山してしまった。けれどそれでも助けてくれた人々を、「しょせんノンクリ」などと言うことは私にはできない。クリスチャンである私たちが彼らより優れているとか、そんなのは思い上がりでしかない。

 時間を戻せるなら、クリスチャンでない友人たちと、教会とは関係なく付き合っていきたい。福音伝道のための付き合いではなく。自分の生活を教会一色にするのでなく、友人たちと遊びに行ったり、趣味を共有したりもしたい。いろいろな世界に足を踏み入れたい。でもそれは教会を軽んじることではない。むしろ教会を豊かにするための時間になると思う。


 以上、まだ他にもあると思うけれど、今回はここまで。

2 件のコメント:

  1. はじめまして。
    私も教会のカルト化についてずっと考えていて、
    このサイトを読ませて頂いています。

    確かに教会の奉仕が忙しくなっても、
    この世の人間関係と切り離されない様に注意しながら
    教会生活を送る事で、ある程度守られる部分はあると思います。

    カルト的教会は、個人のお金も時間も精神も奪ってしまいます。
    これらの事を神の名のもとに行って、
    集団心理を巧みに利用して、あたかも「自分で選んだかのように」
    誘導してゆく所が危ないですね。

    神様は全能の方だから、そんなマインドコントロールをしなくても、
    必要は満たして下さるお方なのに。

    健全な信仰生活を送るためにクリスチャン一人一人は何をしたら良いでしょうね。

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  2. 「教会員として熱心だった時に・・・失礼なことを沢山してしまった。」
    それでも困ったときにちゃんと助けてくれたのですから、本当に良かったと思いますよ。カルト化してしまった新興宗教系プロテスタントの教会に騙されて、友人を全部失ってしまった人がどのくらい多いことか!友人関係を修復できず、家族にも絶縁されて助けを得られなくなった人もいますよ。
    とくに友人関係を悪化させるのは、焼香拒否に代表される狂信的な戒律でしょうかね。
    実際に私の知っている範囲でも、キリスト教のことを何も知らないまま、新興宗教系プロテスタントの教会に足を踏み入れてしまったために、その人は地域のみんなが当たり前のように参加するお祭りに、自分はもとより家族にまで参加することを禁じてしまったのです。これじゃエホバの証人と同じですよね?子供まで宗教に巻き込むのは明らかに間違っていると思うのですよ。
    子供はその地域の子供なら全員楽しむものを楽しめなくなってしまいました。大人にとっては地域のお祭りなんてくだらないと思うのかもしれませんが、実はこういう経験は子供の精神的な成長のためにはとても大切なことなのですよ。子供はみんなと同じように地域のお祭りに参加することで、自分が地域社会の一員であるという自覚を持つことができるのですね。そしてそんな自覚を持つことができればこそ、他者との信頼関係をはぐくむことを覚え、良好な人間関係を築いていける大人になれるのだそうですよ。

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