2015年12月19日土曜日

【解説】カルトっぽい教会を離れた後の話1~3

 今月からシリーズで開始した「カルトっぽい教会を離れた後の話」だけれど、補足したいことがあるので今日は【解説】として書きたい。
 ちなみに本編はこちら。

カルトっぽい教会を離れた後の話・1
カルトっぽい教会を離れた後の話・2
カルトっぽい教会を離れた後の話・3

■なぜ書き始めたか

 私は2013年3月からこのブログを本格的に始動して、福音派・聖霊派を中心とする教会、牧師、クリスチャンらの問題点について書いてきた。それは私が信仰的に立派だからとか、「霊的」だからとか、何かを成し遂げたからとかではない。むしろ私は信仰的でなく、敬虔でもなく、「霊的」でもない。だから自分のことを棚に上げて書き続けてきたとも言える。けれど、だからと言って私に書く権利や資格がないとは思わない。私は少なからずカルト傾向にある教会の実情を知っているし、それがいかに問題で、破壊的で、偽善に満ちた、有害な代物かを知っている。それらが放置されたらどんなことになるか身を持って体験してきた。だからこそ書けることを書いている。そして警告を発しているつもりだ。人が聞くか聞かないかは別として。

 それでイロイロなトピックに分けて、たとえばリバイバルとか「異言」とか、癒しとか「霊の戦い」とかいう事柄について書いてきた。自分なりに分析したり、何人かの話を聞いたり、調べたり、考えたりしながら。またどんな切り口、語り口、方法で書いたらいいか模索しながら。

 そんなこんなで2年以上が過ぎたけれど、 最近、こう思い始めた。自分自身の体験をもう少し直接的に書いたら、誰かの参考になるのではないか、と。今までは先に挙げたようなトピック毎の問題点を書いていたけれど(そしてそれは今後も続くだろう)、今度は「私自身が何を体験したか」「そのとき何をどう感じたか」「そしてその後どうしたか」といったことを書こうと思ったのである。それはたぶん、トピック毎に語るより、もう少し個人的で親近感を持ちやすいものになるのではないかと今は期待している。

■ではどこまで書くか

 個人的な体験を書くと言ったばかりで前言撤回するようだけれど、私が体験した詳細な出来事を書くつもりはない。
 その理由は、1つにはまだ出来事として新しく、公表することで関係者の誰かに迷惑をかけてしまう恐れがある為だ。それは何としても避けたい。
 もう1つの理由は、それが大変複雑な、込み入った話であって、いくら詳細に説明しようとしても、たぶんできないからだ。たとえば「教会の解散」1つ取っても、そこには多くの人のイロイロな気持ちがあり、気が遠くなるくらい長時間に及んだ話し合いや、思い出したくもない衝突や葛藤があり、教会の短くない歴史の中で培われてきた文化やら習慣やらもそこに加わって、もはやそのプロセス(解散に至るプロセス)の全体は、誰にも把握できない、理解できないものになっていると思う。だから私一人の個人的見解でそれを誠意をもって説明しようとしても、それはある立場の当事者にとっては事実と違うように感じられるかもしれない。もちろん同意してくれる当事者もいるだろう。でも全体を正確に説明することはとてもできないと思う。

 同じ教会の身内でさえそうなのだから、第三者に向かって説明して理解が得られるとは思えない。
 すでに、「なぜ解散しなければならなかったのか」「牧師がいなくても教会は続けられたのではないか」という趣旨のコメントをいただいている。たぶんそういうふうに感じるのは自然なことであろう。
 けれど、そういう可能性について私たちが何も考えなかった、とでも思うのだろうか。私たちの教会なのだ。沢山の間違いがあったとはいえ、解散させて嬉しいはずがない。解散させたかったはずがないではないか。
 そういう想像力を働かせるなら、「解散させないのが本当の教会なのでは」みたいな発言はできないと私は思うのだけれど。
 
 という訳で、個人的体験の詳細を説明することは完全に無益だと私は考えている。

 では何を書くかという話に戻ると、私は「カルトっぽい教会を離れた体験」を一般化した形で書きたい。 つまり私の教会に「だけ」起こった話でなく、どの教会にも起こりうる話として。あるいは私個人に「だけ」起こった話でなく、誰にでも起こりうる話として。私や私の教会に起こった出来事の詳細を書くと、たぶん私や私の教会にだけスポットが当たることになる。けれどどの教会、どのクリスチャンにも起こるかもしれない話として書くなら、警告としてより効果的になるのではないか。

 私はそんなことを期待して、このシリーズを書き始めた。

 以上、とりあえず解説として書いてみた。

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