教会が解散する事態になって、それまで目まぐるしく行われていた活動が一斉に止まった。
「神様のためにどうしても必要」だったはずの福祉施設の立ち上げとか、「神様が終わりの時代に求めておられる」はずのダビデの幕屋の礼拝とか、「御心に従って」始めたはずの飲食店経営とか、その他の大小様々な「神に語られて始めた」はずの諸活動が、まるで初めから存在しなかったみたいに突然終了していった。牧師自身も行方をくらました。
スタッフは皆過労で限界な状態だった。活動が多すぎたのだ。「神様に用いられている」スタッフほど多くの仕事を抱えていて、家に帰れないし眠れない状態だった。やっと少し休めると思ったら突然呼び出されたり、いきなり牧師に叱責されたりで、文字通り一時も心の休まることがなかったと思う。今思うとそんなんで本当に教会かって話なのだけれど、当時はそれこそ信仰、それこそ献身、殉教に至るまで従いますってノリで皆がんばっていた。
だからいろんな活動が突然終わって、ショックなのは間違いないけれど、皆どこかで安堵した部分もあったと思う。やっと解放されたというか、もうあんな思いしなくていいんだというか、そんな安心感。
私個人は実は安心感の方が大きかったのだけれど、同時に疑問があった。あれは本当に神様のためだったのだろうか、という疑問だ。
牧師があれだけ「神様のためだから」「主が今強く求めておられるから」「大変だと思うけれどこれが御心だから」と言っていた多くの活動は、本当は何だったんだろうか。ほとんど全ての活動が解散前には終わっていたのだけれど、じゃあ「神様の御心」はどうなってしまったのだろうか。これで神様の計画が狂ってしまって、人類にとって大きな打撃とか、サタンの国の拡大とか、そういう話になってしまうのだろうか。
当時はそんなことをしばらく真剣に考えていたけれど、 単なる考えすぎ、あるいは自意識(自教会意識)過剰なだけだと気付いた。なぜなら正会員数が50にも満たない、全然知られていない一地域教会が、全人類あるいは全日本人の運命を一手に握っているはずがないではないか。
たとえばスティーブ・ジョブスはスマホを開発をしたことで、1人で世界を変えたと言ってもいいかもしれない。同様にアインシュタインは相対性理論で世界を変えたかもしれない。だから「世界を変えるのに数は問題ではない」のだろうけれど、それは何かを成し遂げてから言えって話だ。まだ何もしていない、その可能性も感じられない一地域教会が、「この教会から日本を変えていく」とか言うのは、威勢がいいとか意識が高くていいとかいう話かもしれないけれど、その段階では単なる大言壮語でしかない。いったい何様なのだろうか。
また仮に、1万歩か1億歩か譲って、その牧師の「神様の御心だから」 が本当だったとする。そしてうちの教会が日本の命運を握っているとする。するとうちの教会はその崇高なる使命を果たせなくなったことになるけれど、それがどうしても遂行されねばならない神の御心であるなら、区内にも都内にも教会は沢山あるのだから、どこか他の教会にお鉢が回るだけの話だ。さいわい、日本には「この教会から日本を変える」という意識高い系の福音派・聖霊派の教会が沢山あるのだから大丈夫だ。心配することは何もない。
そういうことに気づき始めると、私は急速に馬鹿らしくなった。「この教会がやらねば日本は救われない」「日本は今すごい危機に瀕している」「私たちが立ち上がらないで誰が立ち上がるのだ」と牧師に言われて涙したり必死になって祈ったり働いたりしたことが、どれも道化の猿芝居にしか見えなくなった。
要するに教会には、牧師の沢山の嘘があったのだ。嘘で塗り固められた砂の王国に私たちは住んでいたのだ。そしてそこで私たちは変な選民意識とか過剰な特別意識とかを肥大させて、痛々しいクリスチャンに成り果てていたのである。
その牧師の嘘の数々をここでいちいち取りあげることはしないけれど、たとえば「ある日突然教会を離れていった人々」が、うちの教会には多かった。そういう人たちの幾人かと、教会解散後に私は再会した。そして彼らから驚くべき話を聞かされた。どの人も口を揃えて言うのは、「牧師に教会を追い出された」「ほかの信徒には絶対連絡するなと念を押された」みたいな話だった。私たちは、彼らのほうが一方的に出て行った、止めたけれど聞き入れてもらえなかった、と牧師から聞かされていたのだ。そしてその度に、牧師が涙を流すのを見ていたのだ。
どこまでが演技でどこまでが真実だったのか、もはやわからない。でも演技が多分に含まれていたのは間違いない。牧師は礼拝の度に、講壇から数々の嘘を発していた。私たちはそれに振り回され、奉仕に駆り立てられ、ありもしない戦いを戦わされ、全てが空になるまで捧げさせられていた。そこがカルトかどうかはこの際どうでもいい。しかしちゃんとした教会だったと認めることは私にはできない。
この新興宗教系プロテスタントの聖職者は、正確にいえば牧師ではなく教祖というべきでしょう。
返信削除この教祖に関していえることは、七つの大罪の一つである「高慢の罪」をおかしているということです。聖職者に対する神の裁きは平信徒よりも厳しいものがあるといいますので、この人は死後に恐ろしいさばきを受けることになると思います。
新興宗教系プロテスタントの聖職者や信者の中には、この「高慢の罪」をおかす人が目立つように感じられます。これはやはり「神と直接つながっている私って素敵!」という感覚を持ってしまうがゆえのことではないでしょうか。
「神と直接つながっている素敵な私」だからこそ、何をやってもいいとなってしまって、それこそ聖職者になれば什一献金という強欲の罪をおかしても構わないということになってしまうのではないかなあと思うのです。
この教祖の「神のため」「神が強く求めている」「神の御心だ」というセリフは、やはり「神様と直接つながっている素敵な私だから、こんな無理をいって信者さんたちを振り回しても全然OK」と考えてしまうからこそ出てくるセリフなのではないかと。
新興宗教系プロテスタントの人間がやたらと変な使命感を持ちやすいのも、選民思想の強い教義があるからです。「あなたは特別に選ばれたエリートなのですよ」とささやくのはーーー本人は神の声と思っているのかもしれませんがーーー実は悪魔の声ではありませんか?
ホント詐欺ですね。
返信削除選民意識と信徒間競争を煽り、献金と奉仕の量を競わせる。
「神のみ心」の殺し文句で有無を言わせない。
講壇から嘘を平気で語り、事実と正反対の事を言う。
私も十年程、同じような体験を私もしました。
思い出しても悔しい。
そして、今は落ち着いた教会に出会えました。