目に見えない「召命」を見えるようにする方法

2015年11月7日土曜日

「献身」に関する問題

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 前回は神学校入学者の質的低下について書きました。要はキリスト教界へ進むことが「安易な道」になっていて、一般の競争社会でやっていけないから、リーダーになりたいけどなれないから、みたいな消極的動機の入学者が増えているのが現状で、その問題の本質と解決策は何か、という話。
 今回も同じテーマで書きたいと思います。

 神学校の入学資格を見てみると、多くの学校で「召命」という言葉を使っています。明確な召命とか、召命の確信とか、そういうものが高校卒業資格とか牧師の推薦とかと同じく必要みたいです。だからこそ入学希望者らは召命召命言うんだと思いますが。
 けれどこの言葉がいろいろな誤解を与え、問題を大きくしているように思います。

 そもそも「召命」って何だという話になると、いろいろな人がいろいろな定義を言いそうですが、この場合のオーソドックスな「召命」の意味は「私、神様に牧師として召されました」みたいなことだと思います。そういうふうに神様にハッキリ「語られた」と自分で「確信している」という状態が、多くの神学校の入学資格になっているのでしょう。

 この「神様に語られたから牧師になります」というのは、すごくわかりやすい話でしょう。それが本当なら誰も異論を唱えないでしょうし、その人は「運命」に従って牧師になるでしょうし、きっと「良い牧師」になることでしょう。「神様にそう語られた」ならそうなるはずです。
 しかし問題は、その「召命」はどうやったら客観的に認められるのか、ということです。口で言うだけなら誰にでもできますし、何とでも言えます。言葉は悪いですが、嘘をつくことだってできます。周りをうまく信用させられれば、本当に神に語られたかどうかは(その人にとって)問題ではありません。

 この問題のポイントは、「召命」が目に見えないことです。
「神が私にそう語られたんです。信じてくれないかもしれませんが本当なんです」
 そう言われたら、あなたなら何と答えるでしょう。その言葉の真偽を確かめるにはどうしたらいいでしょう。相手は目に見えない「召命」です。

 私が思うに、見えないものは見える形にしないと判断できません。
 たとえば「神から預言をいただいた」と言う人がいますが、その真偽はその言葉通りに実現したかどうかで判断するしかありません。そして実現しなかったなら嘘なのです。また結果を判断できない曖昧な表現だったとしたら、それはそもそも「預言」ではありません。
 また預言でなくても「神に語られた」と言う人は大勢いますが、その判断方法も同様で、目に見えるところで判断することになります。すなわち言った本人がどう生きるか、どう行動するか、何を成したか、みたいな点を見ていくしかないでしょう。

 参考になりそうな一つの事例を挙げてみましょう。
 ある教会で短期の宣教旅行が計画されて、夏休み中だったこともあり、多くの学生が参加しました。ただし参加するしないは希望制でなく、「神様に行くように語られたかどうか」という点でした(その基準自体どうかと思いますが)。事前にそういう説明を受けた学生らは、一週間祈ったり何だりして、結果「この宣教旅行に行くように示されました」みたいな結論を牧師に持ってきました。牧師は特にそれを吟味したり検討したりすることなく、「じゃあ参加して」の一言。
 さてそんなこんなで宣教旅行が間近に迫った日曜日、普段教会に来ないAくんが、久々に教会にやって来ました。それで皆が宣教旅行に行くことをたまたま聞いて、「自分も行きたい」と言い出しました。しかし「神様に語られないとね」と言われます。でも諦めきれないAくんは次の日牧師のところに行って言いました。「昨夜祈っていて、この宣教旅行に行くよう神様に語られました。僕も皆と伝道したいです」
 結果Aくんも参加することになりました。で、旅行中のAくんの様子ですが、奉仕を手伝うでもなく、伝道するでもなく、聖書を読むでも祈るでもなく、体調不良を訴えて昼まで休んでいたり、自由時間になった途端元気になって皆と遊んだりと、まあ案の定な展開となりました。

 この場合、Aくんは「神に語られた」と言うにふさわしい行動ができているとは言えません。だから「語られた」ということ自体が嘘なのか、あるいは本当に「語られた」けれどそれに応えられなかったか、どちらかだと思います。いずれにせよ、彼にとって「語られた」ことはさほど意味がなかったのです。

「神からの召命を受けたので神学校に入学します」という言葉にも、同様の判断方法が使えるでしょう。その人がどんな学生生活を送るか、どんな献身生活を送るか、あるいは入学前にどんな生活をしているか、というところを見ていけば、おのずと判断は下されると思います。

 こういう話をしてつくづく思うのは、人は何を言うかでなく何をするかだ、ということです。人の価値を決めるとしたら、その基準は言葉でなく行動にあるべきでしょう。そして逆説的になりますが、行動した人の言葉にこそ重みがある、と私は思います。

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