神学校がネイビーシールズみたいだったら、入学希望者の質的低下は起こらないでしょう、って話

2015年11月5日木曜日

「献身」に関する問題

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 またまた他ブログの記事を引用させていただきますが。

「神学校、献身ホイホイ化するなかれ?」(命と性の日記)

■神学校入学者の質的低下

 この現象、すごくよくわかります。神学校に行きたい人とか卒業した人とかいろいろ見ましたが、 手放しに応援できない人が少なからずいます。
 たとえばチャーチスクールで高校3年生になって進路で焦りだし、でも学力的にどこの大学にも行けない、やりたい分野もないから専門学校も選べない、かと言って就職もしたくない、みたいな消極的な理由で、神学校とか神学部を選ぶ人がいます。もちろん本人はそんなこと言わず、「神様からの召命がきました」みたいなことを言います。けれどその人の学校生活とか対人関係とか聖書や祈りに向かう姿勢とかずっと見ていると、どうもその「召命」に真実味が感じられない訳です。のらりくらりやってきて、とりあえず決めなきゃいけないから決めました、みたいな印象さえ受けます。ただ本人が神妙な顔で「神様が・・・」「召しが・・・」とか言うので、無下にできないというだけで。

 元記事によると、「心配な献身者」の9割は心配が的中し、1割は立派に成長されるそうです。私の感覚だと本当に1割もいるのかって感じですけれど、まあ事実だとして、その1割を価値ある収穫ととるか、犠牲が大きすぎるととるか、議論が分かれるところでしょう。

 ただ一つ断っておくと、献身者として立派に成長したから問題を起こさない、という話ではありません。どんな人格者であっても、対人援助という仕事である限り、失敗しないということはありません。むしろ多くの失敗をしていくでしょう。人格的に欠落しているから問題を起こす、というものもちろんありますが、牧師という職業自体が、失敗の連続を宿命とするものではないかと私は思います。

 たぶん、多少心配な人間であっても神学校に行きたいという人がいるなら、1割の可能性に期待をかけて推薦したいのが牧師の本音だと思います。たとえ明確な人格的問題があるとわかっていても、学業を通して変わっていくかもしれない、成長してくれるかもしれない、その可能性はゼロではない、というふうに考えるのだと思います。
 もちろんそこは議論の分かれるところで、問題があるとわかっているなら推薦してくれるな、という意見も多いのだと思いますが。

 いずれにせよ、神学校入学者の質的低下というのは、現状起こっている事実だと思います。頑張っていらっしゃる神学生の皆さんには大変失礼な話なのですが。私個人の実感としては、そういう結論しかありません。

 この結論を補強するために一つ事例を挙げますが、ある神学校入学希望者がいました。牧師の推薦を得て、願書を提出した結果、入学が決まりました。 しかし入学直前に決して軽くない罪を犯してしまいました。罪と言っても聖書的な罪でなく、いわゆる軽犯罪です。けれど幸か不幸か警察沙汰にはならず、教会内のごく一部だけで、話を収めることになりました。本人は深く反省した様子を見せました。牧師は迷い、一度は推薦取り消しを考えたようですが、結局そのまま入学させることにしました。「学校での劇的変化」を期待してのことでした。
 しかし結果から言うと、その人は神学校を卒業し、教会の献身者となってから、より大きな犯罪を犯してしまいました。結局のところ、何も変わっていなかったのです。

■問題の本質は

 元記事によると、こういう「消極的入学希望者」の動機は「競争社会からの逃避」と、「一般社会ではリーダーになれないけれどキリスト教界でならなれそう」といったものです。私もそれには同意します。そういう消極的な動機を隠して「神からの召命」をタテにするのは、明らかに偽りでしょう。
 けれど問題の本質は、そういう消極的入学希望者の存在にでなく、そういうふうに思わせるキリスト教界の方にあると思います。つまり、キリスト教界なら競争が厳しくなさそうだ、あるいは競争しなくて済みそうだ、簡単にリーダーになれそうだ、地位ある何かになれそうだ、と安易に思わせている現状に、原因があるのだと思います。

 たとえばもし日本の神学校が軒並み、ネイビーシールズみたいな過酷すぎる訓練をするところだったとしたら、入学者の質はむしろ上がるでしょう。誰も苦しみたくはなしい、あえて苦しむのはそれなりの目的があってのことだからです。少なくとも勉強できない、働きたくない、という人間が選ぶ都合のいい進路とはなりません。

↑参考動画。ネイビーシールズの訓練風景(映画「ローンサバイバーより」)。

 しかし日本のキリスト教界の現状で言うと、特に聖霊派や福音派でそうだと思いますが、「霊的っぽいことが言える」「人前で上手にしゃべれる」「歌が多少うまい」というだけで、安易に評価されてしまう傾向があるように思います。聖書知識や理解が乏しくてもほとんど問題視されません。むしろ「本番で上手にしゃべって祈れればいい」みたいな、パフォーマー志向が強まっていて、それに見合う人たちが集まっているように思います。たとえば超教派の集会なんかに行くと、ゲストは皆そこそこ有名な「パフォーマー」ばかりです。

 ちなみに超教派の集会について書きますが、そこは「舞台に立って何を披露するか」が大事な世界です。信仰とか敬虔とか霊的とか、そいういうものは実は要りません。そうでなく、いかに信仰っぽい、敬虔っぽい、霊的っぽいパフォーマンスができるか、が一番重要だし一番評価されるのです。

■問題の解決は

 神学校の入学者の質的低下、という問題の一つの解決は、とにもかくにも「ハードルを上げる」ことにあると思います。安易な希望者を減らすには、安易な道にしないことです。
 いろいろなハードルがあると思いますが、たとえば、ある程度高度な入学試験を課すだけで、安易な入学規模者を減らすことができるでしょう。あるいは神学過程における試験やレポートの難易度を上げ、容易に落第させられる制度にすれば、生徒たちはより真剣に取り組むようになるでしょう。

 こういうことを書くと、いや神学校も経営しなければならないから生徒が必要なんだとか、人間みんな変われるんだからとか、そういう反論があるかもしれません。けれどその学校の目的を考えるなら、答えは明白でしょう。つまり学校の第一義は学校を維持することでなく、良い卒業生を排出することにあるのです。義務教育とは違います。もちろんうまく経営しなければ成り立ちませんが、学校を成り立たせたところで、役に立たない生徒しか排出できないとしたら、そこに何の意味もありません。

 という訳で、「献身ホイホイ化」しつつある神学校について書いてみました。

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