2015年11月10日火曜日

「召命」というアテにならない指標がないと、牧師になれないのか

 前回は多くの神学校が入学資格としている「召命」について書きました。
 要はある個人の召命を確認するには、その人の行いを見るしかない、という話でした。召命とは目に見えない感覚的なものですから、いくら口で言っても証明されるものではありません。その人が何をしたか、結果どうなったか、という行動だけが、それを証明するのです。

 今回はまた別の側面から「召命」について考えてみようと思います。

「神様から牧師の召命を受けたから神学校に入りたいです」というのは至極まっとうな志望動機に思えます。おそらくまっとうなのでしょう。けれどこの言葉、言い換えるとこうなります。
「牧師になれと言われたから神学校に入ります」
 つまり受け身であって、じゃああなたの希望は何なのですか、やりたくないけど牧師をやるんですか、と聞きたくなります。実際のところどうなのか知りませんが、これは神学校入学に限った話ではなく、(たぶん)聖霊派クリスチャンに多くみられる現象です。つまり、
「神様に○○と語られたから」
「祈っていて××と示されたから」
「賛美していて△△という迫りがきたから」
 みたいなことが、あらゆる行動の動機になっているのです。うがった見方かもしませんが、「言われたからやる」というのは、「言われなかったらやらない」ということで、受け身とか指示待ちとかいう態度です。なんの積極性も見られません。受け身の何が悪いとか言われそうですが、クリスチャンは聖書から神様の御心を知るべき存在なので、いちいちあれしろこれしろと言われるまで何もしない、というのはあり得ないのではないでしょうか。

 以前ある牧師から聞いた話です。駅のホームに急病人がいて、駅員があたふたと対応しているところに遭遇したそうです。牧師はどうするべきかしばらく「祈り心」(なにそれ)で様子を見ていて、迷った末に声をかけるべきと「強く示された」そうです。それで駅員に、何かできることはありませんかと尋ねたところ、あなた医者ですかと聞かれ、いいえ牧師ですと答えると、じゃあ結構ですと言われたそうです(当たり前だ)。で結局何をするでもなく立ち去ったけれど、その急病人のために心の中で祈ったからきっと大丈夫だろう、みたいな話でした。

 急病人を見てどうするべきかわからず、「強く示され」ないと何もできないのが今の牧師の一般的なレベルでないことを願います。本当に。
「召命」の話からズレますが、言われないと動けないクリスチャンって何なのでしょう。べつに立派なことをしてくれとか思いませんけれど、隣の人にちょっと声をかけるとか、ちょっと親切にしてみるとか、その程度でも聖書が示す隣人愛を実行していることになるのですが。
 さきの急病人の話で言えば、隣にいて声をかけるとか、荷物を持ってあげるとか、考えればいろいろできることはあるでしょう。

 だから「神様から牧師の召命を受けたから神学校に入ります」というのも結構ですが、その本人が一番何をしたいのか、牧師になってどうしたいのか、それは本当に牧師でなければできないことなのか、ということを明確にすべきだと私は思います。神学校はその辺をどう選考しているのでしょうか。知りませんけど。

「牧師になるには召命が必要だ」というのはもっともかもしれません。けれどそれは「神様からの許可」なのでしょうか。
 牧師という職業は、たしかに誰にでもできることではないでしょう。人の話をとことん聞いたり、嫌な部分を見せられたり、助けても裏切られたり、お金でいつも苦労したり、まあ大変なことは山ほどあると思います。けれどそういうことがわかったうえでなお「牧師になりたい」と言う人がいるとして、その人に「明確な召命」がなかったとしたら、牧師になれないのでしょうか。

 そういう意味で、「召命があるから牧師になる」というのはどこか他人事のような気がします。 それより「自分は牧師になりたいんです」ということの方が真実な気がします。「人格的に問題があったらどうするんだ」という意見もありそうですが、それは召命の有無とは関係ありません。現に「自分には召命がある」と言っている牧師が、沢山の問題を起こしてきました。だから現状をみる限り、「召命」とは牧師の資質・資格をみるうえで最もアテにならない指標となっているのです。

 神学校入学者の質的低下は、その辺にも原因があるように私は思います。皆さんどう思われるでしょうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿