日本時間の14日早朝、フランスのパリで大規模なテロが発生し、128名の死者が出ました。大変痛ましい事件であり、被害に遭われた方々やそのご家族、関係者の方々の心中を思うと、言葉もありません。亡くなられた方々のご冥福を祈らせていただくばかりです。
当然ながらテロはなくすべきだと思います。しかしながらそんな綺麗事を言っていてもどうにもならない現状があるのもまた事実だと思います。
またテロに限らず、世界中のいろいろなところで様々な事件事故が起きていて、それこそ突然に、命を失ってしまう人々がいます。こう言っている私自身も含めて、それがいつ誰に起こるかわかりません。今朝家を出たきり、二度と戻れない、ということも残念ながらあるでしょう。
こういう話で私がいつも思い出すのは、小学校時代の同級生のことです。
彼は母子家庭で、母一人、子一人で暮らしていました。ある放課後、彼の家に遊びに行きました。ちょうど母親が出掛けるところで、簡単な挨拶をしたのを覚えています。
何時間か経って、電話が鳴りました。友達が出ました。話しているうちに友達の表情が消えていくのがわかりました。後から知ったのですが、母親が交通事故に遭い、病院に運ばれたけれど、亡くなられたのでした。
友人のお母さんと簡単に挨拶しただけですれ違ったことを、私はとても後悔しました。もちろんそんなことになるなんて誰にも想像できなかったでしょうし、仕方のないことだったと思います。けれどそういう理屈では納得できないものが、私の心に残りました。実は今もまだ残っています。
あのとき、私は沈む友人に声をかけることができませんでした。何と言うべきだったのか、いまだにわかりません。おそらくどんな言葉でも不十分だったのではないかと思います。
彼は母子家庭で、母一人、子一人で暮らしていました。ある放課後、彼の家に遊びに行きました。ちょうど母親が出掛けるところで、簡単な挨拶をしたのを覚えています。
何時間か経って、電話が鳴りました。友達が出ました。話しているうちに友達の表情が消えていくのがわかりました。後から知ったのですが、母親が交通事故に遭い、病院に運ばれたけれど、亡くなられたのでした。
友人のお母さんと簡単に挨拶しただけですれ違ったことを、私はとても後悔しました。もちろんそんなことになるなんて誰にも想像できなかったでしょうし、仕方のないことだったと思います。けれどそういう理屈では納得できないものが、私の心に残りました。実は今もまだ残っています。
あのとき、私は沈む友人に声をかけることができませんでした。何と言うべきだったのか、いまだにわかりません。おそらくどんな言葉でも不十分だったのではないかと思います。
そのとき私はシンプルな事実に気づきました。人はいつ死ぬかわからない、という事実です。当たり前のことなのですが、これをリアルに受け止めるのは案外難しいと思います。その証拠に、今日どこかに出掛ける人は、また家に帰ってくると信じて疑っていないでしょう。けれどそれは確約された未来ではないのです(もっとも確約された未来などありませんが)。
パリのテロ事件をみて、またそんなことを考えました。
そのとき私はカフェにいたのですが、すぐ隣に若いカップルがいて、ディズニーランドについて話しているのが何となく耳に入っていました。どういうコースで回ったらいいとか、雨が降ったらこうしようとか、ターキーレッグは絶対食べたいとか、そういう話です。微笑ましい話なのですが、テロ事件の記事を読んでいる私はなんとも不思議な感覚を覚えました。人々は今日もどこかで、それぞれ関係なく生きている訳です(それがいいとか悪いとかいう話ではありません)。
そのとき私はカフェにいたのですが、すぐ隣に若いカップルがいて、ディズニーランドについて話しているのが何となく耳に入っていました。どういうコースで回ったらいいとか、雨が降ったらこうしようとか、ターキーレッグは絶対食べたいとか、そういう話です。微笑ましい話なのですが、テロ事件の記事を読んでいる私はなんとも不思議な感覚を覚えました。人々は今日もどこかで、それぞれ関係なく生きている訳です(それがいいとか悪いとかいう話ではありません)。
ところで今日は11月15日の日曜日で、たぶん日本中の教会で主日礼拝が持たれると思います。おそらくプロテスタントの、福音派とか聖霊派とかの教会で、説教でこのテロ事件に触れる牧師が少なくないと思います。
説教で何を話そうが自由ですし、信徒の皆さんがそれで満足できれば何も問題ないと思いますが、願わくば「配慮」をもって話してほしいものです。
説教で何を話そうが自由ですし、信徒の皆さんがそれで満足できれば何も問題ないと思いますが、願わくば「配慮」をもって話してほしいものです。
というのは、その手の話題で全然配慮できない牧師とか信徒とかがいるからです。
たとえば、私たちはテロのない国に住んでいて良かったとか、今回の事件にも何らかの意味があるから被害者らの死は無駄ではなかったとか、この犠牲を通して主の栄光が現されるとか、遺族の前で言えるのか大いに疑問な話を、したり顔でする訳です。
あるいは「犠牲になった方々のために祈ろう」という話になったときに、「いやいやテロリストの救いのためにも祈るべきでしょう」とか言う人が必ずいて、それ自体全然間違っていないのですが、空気を読めていないというか、配慮ができていないというか、なんとも見当違いな話になることがあります。「皆にはない視点を持っている特別な自分」をアピールしたい気持ちはわかりますが、そういう祈りの場では差し控えるべきでしょう。
今日持たれる礼拝で、そういう見当違いなことがなければいいなと思います。
パリのテロの事件についてふれるとしたら、たぶんイスラムは危険な宗教だみたいなことを説法でいわれるのではないでしょうか。ひどいところになると「イスラムとの戦いが始まっています」とか「世界の終末が近いからです」といった話が出るのかもしれません。
返信削除イスラムのことを悪く言う新興宗教系プロテスタントは決して珍しいものではありません。
しかし彼らは何もわかっていません。イスラム=危険、プロテスタント=安全とでも思っているのでしょうか?
イスラムとプロテスタントは似たような性質があります。イスラムの過激派がテロをすると、「イスラムはひどい。どうにかできないのか?」という声が必ずあがりますが、これは新興宗教系プロテスタントで、カルト化した教会がセクハラをやって教祖が逮捕されても、事件を受けて業界全体で公的責任でどうにかすることはできないのと同じことなのです。
新興宗教系プロテスタントはプロテスタントの中にはイスラムと似たような体質があるということに気付いていません(というより指摘されても絶対に認めないといったほうがいいのかもしれませんが)。
IS国の論理はカルト化した新興宗教系プロテスタントと同じ論理なのです。
そう思います。
削除善悪の二元論で相手を切り捨ててしまう点や、この世の法律やルールよりも、聖書が上だとかの言葉が飛び交います。
他人事ではないです。、
プロテスタント(ファンダメンタル)はカトリックより、イスラム教に似ている。
返信削除これは宗教改革の頃から言われていた事です。
・どちらも偶像崇拝を厳格に禁じたので会堂はいたって簡素で、絵画や彫刻を置かない。
・聖典の一字一句をそのまま解し、生活様式までも時代に関係なく取り入れる。
・酒やパーティ、男女交際などを享楽的として憎しみの対象とする。
・国際的取り決めや憲法・法律より、聖典に書かれている事を重視するので、恣意的な解釈になり残虐性を表す。
イスラムとプロテスタントの共通点はいずれも本山を持たず、個人が神と直接つながっているものという考えから、麻原彰晃が勝手に経典を解釈して、タントラ・ヴァジラヤーナをやってしまったのと同じようなことをやらかしかねないということでしょうね。
返信削除しかしイスラムとプロテスタントではまだイスラムのほうがいささかましではないかと感ずる部分もありますよ。それはイスラムの聖職者は職業ではなくあくまでボランティアであり、信者たちは聖職者一家の生活や子供の教育費を負担させられる重圧がないということです。献金も収入から必要な出費をのぞいて、余剰の中から一割ということですので、お金持ちの人なら月に一万くらいになるのかもしれませんが、大半の人は一家で数千円程度であり、したがってモスクでは献金トラブルは存在しないという点ですね。
今年は原理主義的なイスラムのIS国と、新興宗教系プロテスタントの犯罪が立て続けに起こった年といっていいでしょうよ。IS国は各地の世界遺産を破壊しまくったわけですが、日本でも日本国籍を持つという韓国系の新興宗教系プロテスタントの教祖が、神社やお寺に油をまいて大騒動になりましたしね。
自爆した若者の遺書にも両親あての遺書に「私は殉教者としての地位を神に与えられました」というくだりがある。
返信削除http://www.newsweekjapan.jp/kawakami/2015/11/post-3_1.php
やはり福音派プロテスタントと同じに思います。
そう言えば「神があなたを選んだのだ」とよく言われ、入会・献金を勧められ洗脳されました。
ファンダメンタリストは、いわゆる文字信仰です。聖書に書いてある字面を、ある特定の教理に合わせて解釈し、「だからこうしなければなりません。これが正しいのです。神の御心を行う事、まず神の国とその義を第一とするべきです。ではどうすべきかわかりますよね。答えは決まっています。牧師や教会の言う事を守り行う事です。私たちは世のものではないのです。選ばれた聖徒です。」
返信削除云々かんぬん。
ですから、一般社会で起きるあらゆる事を、上から目線で常に批評する。評論家でしかないのです。
優しそうな言葉で語りますが、それだけ。決して痛みを共有するための、「人としての」僅かな行動さえ起こしません。
やるのは「祈る」だけ。
それより何より、キリスト教関係の団体へのサポートが優先されます。
先日ダライ・ラマさんが「祈るだけでは何もならない」と、今回のテロ関連の事で語られていました。
「私たちは神の者だ」と言うのであれば、それなりの行動をすべきでしょう。