結婚相手としての「カルトっぽい牧師」の厳しさ

2015年10月31日土曜日

教会生活あれこれ

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 リンクを貼らせていただいているブログ「一キリスト者からのメッセージ」の数年前の記事のようですが、こんな面白いものがありました。

「結婚相手としての牧師の厳しさ」(一キリスト者からのメッセージ)

 もともとはこちらの記事を受けて書かれたものみたいです。
 要するに、僧侶に嫁ぐ女性は増加しているけれど、牧師に嫁ぐ女性はなかなかいない、という話。 教会あるあるな内容でもあります。

 いきなり脱線しますが、ブログの不便な点の一つに、過去の記事が埋もれてしまってなかなか目に留まらない、というのがあると思います。上記の記事も数年前のもので、最近たまたま見つけて「こりゃ面白い」と思った次第です。当ブログにもそういう傾向があって、同じようなテーマで何度書いても書き足りない感覚があります。

 というわけで脱線は終了して上記記事の話ですが、牧師のところに嫁が来ない理由として考えられているのが次の3つ。

①牧師だと、悔い改めよ、と説教されそう。
②生活大変そう。
③信仰の内実が問われそう。

 うん、教会あるある。家庭生活でイロイロ説教されそうだし、いつまでたっても貧しそうだし、信仰か不信仰かをいつも問われそうですね。説教、清貧、信仰の3つで「3S」とか言われそう。

 で、この記事を受けて私が考えたのが、結婚相手としての「カルトっぽい牧師」の厳しさ。普通のクリスチャン女性がカルト臭い牧師のところに嫁に行ってしまうと、どんな目に遭うか。かなり笑えない話ですが、考えてみました。

 ①「立派な牧師夫人」というイメージを堅持しなければならない。

 牧師夫人はただでさえ信仰面とか人間性とかを厳しく問われる立場にありますが、見栄を気にするカルトっぽい牧師の嫁だと、冗談じゃなく「敬虔で清廉潔白で献身的な女性」であることが求められます。教会では疲れた顔はできません。いつも笑顔で人々をもてなしたり世話したり話を聞いたり祈ってあげたり、カトリックじゃないけどマリア様的な存在でなければなりません。
 それに反するとどうなるか? 家に帰ってから説教三昧です。夫から。いや説教だけで済めばいいんですが・・・。

 そういう扱いをイヤイヤ受ける人はまだ健全です。「これが私の使命」とか思い込んでしまう人もいて、 日々修行みたいになっちゃってる人もいますから。

②不正会計を不正でないと思いこまされる。

 単立で牧師夫人が会計係をしている教会はきっと多いと思います。そこまで会計規模が大きくなく、そこまで厳密でなくてもオーケーな雰囲気で、かつ他に頼める人がいない場合、自然な流れとして、牧師夫人が会計をすることになるからです。そういう教会だとおカネは牧師が握っていることが多く、奥さんが会計をしていると、何かと便利でもあるでしょう。

 で、そうなると会計の実情は夫婦しか知らないことになって、そうすると、限りなくグレーな会計処理をしてしまう、なんてこともあると思います。たとえば牧師が知人と個人的に食事に行きました。あとから「あれは宣教を広めるという目的があった」とか言いました。それで教会会計から食事代が出されました。結果「対外宣教費」という項目で処理されました。みたいな話。

 同じ手口で他にもいろいろできるわけで、たとえば牧師個人の旅行とか、牧師個人の買い物とか、どこかの有名牧師への個人的な贈り物とか、そういうのが全部教会会計から支出されることになります。牧師夫人はたぶん最初は「これでいいのかな」とか思ったかもしれませんが、夫である牧師からこう言われたら、黙らざるを得ません。
「これは全部神様のためにやっていることだ。私利私欲のためじゃない。自分はフルタイムで神様に献身しているのだから、神様のためにした出費はすべて教会が負って当然じゃないか」

 そういうことを言われ続け、グレーな会計処理をし続けるうち、だんだん何が正しいことなのかわからなくなってくる、というのはあると思います。もちろん、すべての牧師夫人(教会)がそんなことをさせられているわけではありませんが(むしろ一部だけでしょう。そう願います)。

③病気は「癒された」ことにさせられる。

「病の癒し」となるとまた大きなトピックになってしまいますが、そんな大きな話でなく、たとえば風邪をひいて2、3日たって治ったとします。信徒から「もう具合はいいんですか」と聞かれると、牧師夫人はすかさず笑顔で「はい、主によって癒されました。ハレルヤ」とか言わなければなりません。
 あるいは腰痛があり、海外からの「癒しのミニスター」なんか祈ってもらうとします。祈られてから「どうですか」とか聞かれたら、答えはもちろん「すっかり癒されました」です。
 以降、腰痛があっても誰にも言えません。

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