感動譚にご用心

2015年3月24日火曜日

教会生活あれこれ

t f B! P L
 また東日本大震災関連の話から始める。

 事の真偽はともかく、次のような「ケータイ遺書」が気仙沼で見つかった、という話がけっこう話題になった。

もうバッテリーがないよ
痛いと言わなくなったので
妹はさっき死んだみたいです(ToT)
埼玉はだいじょうぶですか?
またお父さんと一緒に
ディズニーランドに行きたかったです
お父さん 今までありがとう♡
だいすきな お父さんへ
本当にありが

享年 長女17
享年 次女14
父48

 瀧本光静氏が手書きした「作品群」の一つで、「気仙沼で発見された携帯に残された最後のメール」と題されている。
 繰り返すがこのメールの真偽はいろいろ言われていてわからない。
 けれど一部の教会では、このメールが感動譚として大いに利用された。

 メッセージの途中、ちょっと紹介したいエピソードがありますとか言って、牧師が上記の「ケータイ遺書」をゆっくり読み上げる。最後の方は涙声(←これ大事)。会衆にもさめざめと感動の涙が広がっていく・・・。
 というのが定番の流れ。

 でもよくよく考えてみると、なんでメッセージの途中でこれ読み上げる必要があったんだろう? どういう流れだったっけ? というのがちょっと思い出せない。当時はそういう「震災関連感動譚」が毎週のように語られていたから、耳がマヒしていたのかもしれない。

 いずれにせよ(メールの真偽は別として)、人の死を感動ネタとして利用するのは牧師としてどうかと思う。けれど聖霊派の牧師は「感動させてナンボ」みたいなところがあるから、仕方ないと言えば仕方ない。彼らには聖書より感動の方が大事なのである。その感動が聖書につながれば万々歳なのである。

 思い出せば礼拝メッセージは感動譚ばかりだった。山火事の中で奇跡的に生き延びた雛鳥とか、小児麻痺の息子を背負ってトライアスロンに挑む父親とか、中国で当局の弾圧を逃れる孤児施設とか、もうそんな話ばかりである。信徒は毎週聖書からメッセージされているような気になっているけれど、結局のところ聖書知識の蓄積なんかなくて、毎回うすっぺらい感動譚に感動しているだけだ。30分間笑い話に笑いっぱなし、なんてこともある。

 だから毎週礼拝を守るのが大事だ、なんて言うけれど、その礼拝がどんな内容かの方がよっぽど大切だと思う。30分間牧師の冗談に付き合って笑うのが礼拝だとしたら、そもそも礼拝って何だってところから考えた方がいい。「何十年欠かさず礼拝を守った」と言う人がいて、それはそれで尊敬するけれど、それって本当に礼拝だったんですか? と偏屈な私は思ってしまう。

 いずれにせよメッセージに感動譚を持ち出す牧師には要注意だと思う。単に感動したいだけならそれでいいだろうけれど。

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