「罪」と「悪魔」の混同。「悪魔に対して扉を開く」という表現について。

2014年8月8日金曜日

キリスト教信仰

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悪魔に対して扉を開く」という表現を使うクリスチャンがいる。
「ハロウィン悪魔崇拝説」の信奉者らがそうだ。ハロウィンついでに書くと、カボチャをドアに飾るとか、仮装とか、そういう行為が「悪魔に対して扉を開く」ことになるそうだ。

 私はべつにハロウィンにこだわっている訳ではないので他の例も挙げると、たとえば映画『ハリーポッター』を観るとか、ゲームセンターで遊ぶとか、他宗教の施設に入るとか、そういうことが悪魔に付け入るスキを与えることになるという。それがキッカケで悪魔に攻撃されるそうだけれど、どんな攻撃で、その結果どうなるのか、という点はよくわからない。憑りつかれ、呪われ、代々呪われるのだろうか。

 クリスチャンであっても罪を犯し続ければ、悪魔に対して扉を開くことになる、と主張する人もいる。けれどその主張は、罪と悪魔を混同してしまっている。罪は罪、悪魔は悪魔である。悪魔は罪のキッカケの一つであるけれど、罪そのものではない。また罪を犯したから悪魔にやられる、という順番でもない。その逆だ。アダムとエバを見ればわかる。

 またその主張には、背後に性善説がある。
 もちろん故意的に罪を犯し続けるなら、主の裁きを免れない。けれど、じゃあ故意的に罪を犯さなければ私たちに罪はないのかというと、そんなことはない。私たちは日々罪を犯している。自分で気づいていないだけだ。上記のような「行為」さえ避ければ自分は罪がなく潔癖だ、と言い張るのは、単に傲慢でしかない。
 そしてそれは明らかに聖書に反している。確かに人間は悪魔に誘惑されたけれど、自ら進んで、楽しんで罪を犯したのだ。そしてその性質は今も、クリスチャンになっても残っている。その件については、パウロも「ローマ人への手紙」で紙面を割いている。

 この「悪魔に対して扉を開く」という主張にも、同様の性善説がみられる。この「扉」さえ開かなければ大丈夫だ、自分に罪はない、という話になるからだ。

「カボチャをドアに飾る」とか、「仮装する」とか、「ゲームセンターに行く」とか、そういう行為が悪魔崇拝につながる、という主張は、そもそも論理的に破綻している。崇拝とは心の行為であって、目に見える行為ではないからだ。つまり「知らなくても仮装すると悪魔にやられる」というのは、「崇拝する心がなくてもその行為によって悪魔にやられる」という主張になる。すると、悪魔崇拝しようという「罪の心」がなくても、仮装という行為によって「罪を犯させられる」ことになる。すなわち性善説だ。また物質主義でもある。

「悪魔に対して扉を開く」という表現を使うとき、それが純粋に悪魔の侵入を防ごうとするものなのか、それとも罪を犯さないようにしようとするものなのか、はっきり区別する必要がある。
 そして前者の場合、「行為」で悪魔の侵入を防ぐことはできないので、意味がない。
 そして後者の場合、「悪魔」と「罪」はそもそも別物なので、やはり意味がない。

 私たちは日々罪を犯してしまう存在だけれど、それで悪魔がどうとか、そういう話にはそもそもならない。罪を犯すたび悪魔がやってきて、私たちに攻撃なり憑依なりするとしたら、全人類はすでに悪魔の餌食となっている
 アダムとエバは罪を犯すまではヘビ(悪魔)に付きまとわれたけれど、罪を犯して以降は、逆に放っておかれているように読める。少なくとも悪魔に憑依されたとか、滅ぼされたとか、そういう記述はない。

 という訳で、「悪魔に対して扉を開く」という表現については十分な再考が必要だろうと思う。ちなみにこの言葉、「中二病」っぽいので、私自身は絶対に使いたくない。

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