「悪魔に対して扉を開く」という表現を使うクリスチャンがいる。
「ハロウィン悪魔崇拝説」の信奉者らがそうだ。ハロウィンついでに書くと、カボチャをドアに飾るとか、仮装とか、そういう行為が「悪魔に対して扉を開く」ことになるそうだ。
私はべつにハロウィンにこだわっている訳ではないので他の例も挙げると、たとえば映画『ハリーポッター』を観るとか、ゲームセンターで遊ぶとか、他宗教の施設に入るとか、そういうことが悪魔に付け入るスキを与えることになるという。それがキッカケで悪魔に攻撃されるそうだけれど、どんな攻撃で、その結果どうなるのか、という点はよくわからない。憑りつかれ、呪われ、代々呪われるのだろうか。
クリスチャンであっても罪を犯し続ければ、悪魔に対して扉を開くことになる、と主張する人もいる。けれどその主張は、罪と悪魔を混同してしまっている。罪は罪、悪魔は悪魔である。悪魔は罪のキッカケの一つであるけれど、罪そのものではない。また罪を犯したから悪魔にやられる、という順番でもない。その逆だ。アダムとエバを見ればわかる。
またその主張には、背後に性善説がある。
もちろん故意的に罪を犯し続けるなら、主の裁きを免れない。けれど、じゃあ故意的に罪を犯さなければ私たちに罪はないのかというと、そんなことはない。私たちは日々罪を犯している。自分で気づいていないだけだ。上記のような「行為」さえ避ければ自分は罪がなく潔癖だ、と言い張るのは、単に傲慢でしかない。
そしてそれは明らかに聖書に反している。確かに人間は悪魔に誘惑されたけれど、自ら進んで、楽しんで罪を犯したのだ。そしてその性質は今も、クリスチャンになっても残っている。その件については、パウロも「ローマ人への手紙」で紙面を割いている。
この「悪魔に対して扉を開く」という主張にも、同様の性善説がみられる。この「扉」さえ開かなければ大丈夫だ、自分に罪はない、という話になるからだ。
「カボチャをドアに飾る」とか、「仮装する」とか、「ゲームセンターに行く」とか、そういう行為が悪魔崇拝につながる、という主張は、そもそも論理的に破綻している。崇拝とは心の行為であって、目に見える行為ではないからだ。つまり「知らなくても仮装すると悪魔にやられる」というのは、「崇拝する心がなくてもその行為によって悪魔にやられる」という主張になる。すると、悪魔崇拝しようという「罪の心」がなくても、仮装という行為によって「罪を犯させられる」ことになる。すなわち性善説だ。また物質主義でもある。
「悪魔に対して扉を開く」という表現を使うとき、それが純粋に悪魔の侵入を防ごうとするものなのか、それとも罪を犯さないようにしようとするものなのか、はっきり区別する必要がある。
そして前者の場合、「行為」で悪魔の侵入を防ぐことはできないので、意味がない。
そして後者の場合、「悪魔」と「罪」はそもそも別物なので、やはり意味がない。
私たちは日々罪を犯してしまう存在だけれど、それで悪魔がどうとか、そういう話にはそもそもならない。罪を犯すたび悪魔がやってきて、私たちに攻撃なり憑依なりするとしたら、全人類はすでに悪魔の餌食となっている。
アダムとエバは罪を犯すまではヘビ(悪魔)に付きまとわれたけれど、罪を犯して以降は、逆に放っておかれているように読める。少なくとも悪魔に憑依されたとか、滅ぼされたとか、そういう記述はない。
という訳で、「悪魔に対して扉を開く」という表現については十分な再考が必要だろうと思う。ちなみにこの言葉、「中二病」っぽいので、私自身は絶対に使いたくない。
別の視点ではありますが、混同が有ることについての言及が共通点であるということでお許しいただきたいと思います。ハロウィーン関連で一言申し上げます。
返信削除旧約聖書においては、イスラエルの神こそ真の神と心に決めたシリヤの将軍ナアマンが、執務上リンモン礼拝の介添えをしなければならないことをゆるして欲しいと言った時、エリシャは「安心して行きなさい。」と言ってそれが問題ないことを示しました。
また、新約聖書においては、パウロがコリントの教会の質問に回答するにあたって、市場で売られている肉に関してはそれが市場に出る前に偶像の神に捧げられたり、偶像の神を通して清めの儀式をしていたりするのが当時の習慣であったにも関わらず、問題とせずに食べなさいと言っています。
つまり、聖書は、偶像礼拝という行動に関係が有るということと、自分の心が偶像礼拝をしているかどうかは別のものだとしていると判断できます。ハロウィーンは遊びやお楽しみという性格があり、また、中心的意義は収穫感謝にあり、偶像礼拝の心を持って行う人はほぼ皆無でありましょう。ナアマンやコリントの教会の人々が直面していた問題と比較すれば、その偶像礼拝の度合のなんと低いことでしょうか。より直接的な偶像礼拝との関係を聖書は気にしないで良いとしたのに、ハロウィーンの方は悪魔に心を開くからだめというのは、聖書を根拠とした判断をないがしろにしているとしか思えません。
罪と悪魔を混同するということもそうでしょうけれど、偶像礼拝に関わりが有るということと、実際に偶像礼拝をしているということも混同されていると思った次第です。
ヨブ記は、悪魔が主の許しをもらって、それまで完璧に道を歩んでいた敬虔な人物に害をなす話ですから、攻撃も誘いもなにも、ねぇ?
返信削除30年前は、ビートルズやELOのレコードを逆回しすると悪魔のメッセージが聞こえるという仕掛け<バックワードマスキング>が、トワイライトゾーン(という名前のオカルト誌)にも載ってましたし、ロックはリズムとメロディーで悪魔を呼び出すとか別の場所にも書いてあったような気もしますが、21世紀のいまどきJ-POPでは言い過ぎだし<まぁ、聖飢魔2とかアニソンのAliProjectとか、怪しいのはあるけどさ>
教会の許す娯楽<運動、クルマ、アコースティックギター、ピアノ、レクリエーションゲームetc>以外は悪魔の道とか、しょうもない意見は克服したいものですね。
ふと思いました。
返信削除混同ということでありますなら、通夜・葬儀での儀礼的なお焼香・拝礼等の行為を「偶像礼拝です」と言って、それらを避けるように、あらゆる言い訳・知恵を尽くす事が勧められ、そうしない時は「悔い改めてください」等と言う牧師さんがいます。
人の顔色を伺うのは・・・とか、人を恐れるのは・・・・とか、論点や視点がずれているとしか考えられません。
おかしな教えを信じている人達ですね。聖書の何処を読んでいるのでしょう?
そう言う方たちに言って差し上げたいのは「クリスマス・イースターの起源は偶像礼拝なんですよ」と言う事です。
これらはキリスト教のお祭りだから良くて、お焼香や拝礼は、他宗教のお祭りだから駄目ですとでも考えているのでしょうか?
最近首をかしげる事が多くなっております。
クリスマスやイースターの起源が偶像礼拝だっていうことはあちらも承知していることですから、あまり効き目はないでしょう。仏教のフォーマットのままの焼香と、キリスト教のフォーマットに作り変えたクリスマスやイースターを同列に扱って指摘しても、扱いが異なるからよいのだということになりましょう。
削除儀礼的で、遺族や関係者を慰めるために行われる焼香等を、「心の問題」と切り離して形式だけで判断するから「偶像礼拝です」などという発言になるわけでしょう。そんな人たちは、自分たちがクリスマスやイースターをよしとするのは、「心の問題」であることに気づいていないと思います。
「お焼香や拝礼をすることは偶像崇拝であるから、そんなものは避けるべきである」と教えている教会は、ホームページに「うちの教会ではお通夜やお葬式でお焼香や拝礼をすることは偶像崇拝だという考えですので、お通夜やお葬式でお焼香や拝礼をしない人だけおいでください。お焼香や拝礼をしたいという人はお断りします。」と書いてあるのでしょうか?
返信削除いいえ♪(^.^)
返信削除そう言う細かいことは、一切ないでしょうね♪(@_@)
「当教会は、伝統的な正当のキリスト教で、エホバの証人、モルモン教会、統一教会とは関係ありません」と言う文言ならば、耳タコですが・・・・。
はっきりと言うならば、御都合主義です。
何かにつけて「それは偶像崇拝です!」とさばき、焼香をするな拝礼をするな(中には仏事そのものに出席するな)と教える教会は、伝統的なキリスト教会とはいえないというのは、キリスト教の常識では?
返信削除ものみの塔聖書冊子協会のような狂信的な指導をするのは、単なる新興宗教であるというのは、今や誰もが知っていることです。ホームページに嘘を書いてはいけません。
匿名様、別の匿名でございます。
削除私、一応日本人クリスチャン三世でございまして、戦後のアメリカ人宣教師の影響をある程度認識しているものでございます。で、彼らが偶像礼拝であるという理由で焼香などを避けるように指導していた面が有ると認識しております。つまり、そういう指導をしていたのが、ある意味伝統的な教会であったりした過去が有るということでございます。
伝統的な教会で焼香などを避けるような指導をすることはありませんよ。戦後に来日したアメリカ人の宣教師の教会は、仏教系でいうなら創価学会です。創価学会は新興宗教であって伝統宗教ではありません。
削除伝統的な教会でアメリカ人の宣教師というと、幕末に来ていますので、年代的には新撰組の隊士たちくらいではないでしょうか。彼らの生存はせいぜい大正時代か昭和の初めまでが限度で、さすがに第二次世界大戦が終了した時代までは生きているとは思えませんね。
戦後にマッカーサーは伊勢や靖国をとりつぶそうと検討していたそうですが、それを守ったのもキリスト教でした。つまり伝統的なキリスト教会では焼香を避けろといった狂信的な指導はないとわかりますね。伝統的な教会は大正時代から新興宗教を狂信的で盲目の信仰であると批判していました。伝統的な教会のクリスチャンは侍従や女官や宮内庁の職員になる人が珍しくはありません。彼れらは今日も両陛下の宮中祭祀のお手伝いをしています。よって伝統的な教会で焼香を避けろといった狂信的な指導はありえないとわかるでしょうね。
別の匿名でございます。
削除つまり、匿名様の「伝統的」の定義が異なるということでございましょう。私の場合はメインライン諸教派を念頭においております。そして、その一つである長老改革派の宣教師たちに戦後指導を受け、教役者養成機関で教育を受けた私の親もそういう焼香をしない等の立場でありました。
メインラインに属する宗派なら新興宗教ではありませんが、私の知る限り焼香などを避けるようにという指導がなされたという話は聞いたことがありませんね。
削除私の周囲でも、新興宗教系プロテスタント(エヴァンジェリカル)では、焼香などを避けるようにと今現在も指導がなされていることがしばしばあり、そのせいで親戚と仲が悪くなってしまったというケースはいくらでもありますが、長老改革派ですと、地方でも明治の中ごろに進出しておりますので、そういった指導がなされていたというケースは本当に初耳です。
メインラインと呼ばれる伝統宗教は、周囲と対立しないことを昔からずっと方針としてやっているものです。焼香などを避けるようにと指導することは、「周囲と対立しなさい」と教えているのと同じことになります。伝統宗教系のプロテスタントでそのように狂信的で周囲と対立するような指導がなされていたというのは非常に驚いてしまいました。
長老改革派ですと、明治時代からミッションスクールをやっていることが多いと思いますが、ミッションスクールでは「ほかの宗教を信じていらっしゃる方々に対しては、葬儀のような場ではその宗教のやり方にあわせてさしあげなさい」という指導が学校ではなされていますし、もちろん学校で指定された教会でも同じような指導がなされています。
あえて原因としてあげられることを考えてみますと・・・たぶん幕末にはどこでもこぞって一番優秀な人材を日本に送り込み、彼らは日本で焼香などを避けろという指導をするのは逆効果だとすぐに聡明な頭脳で見抜いたので、周囲と上手にやっていくキリスト教会を確立できました。
いっぽう第二次世界大戦後は、やはり日本はアメリカと戦争をして負けてしまったので、「日本はバカだ」と見下していた人が多かったのか、宣教師の派遣要請がGHQからあったときに、幕末とちがって質は問われずとにかく数ということで、昔だったら絶対に日本には派遣されることのない出来の悪い人も送られたということがあったからではないかと推測します。
簡単に言うなら、文化の違いを理解出来ていない、ピューリタン欧米人宣教師が、日本人であれば当たり前の慣習を見て、偶像礼拝だと規定してしまったため、それがその系統の神学校に伝わり、あれはいけない、これはいけない、となっただけではないでしょうか?
返信削除しかし、頭を使って考えればわかるのに、馬鹿な牧師どもだと思います。
あなた何人?( ・∇・)
って聞いて差し上げたいですね(^人^)