「霊性」の問題でいろいろ書いてきたのを振り返ってみると、一つの共通点があるのがわかる。それは「うわべを見る」ということだ。
「霊性」云々を強調するクリスチャンは、結局のところ「うわべ」を気にしている。「主からの啓示」とか、大胆に祈ることができる「能力」とかを披露することで、自分を優位に立たせよう、影響力ある人間になろう、としているからだ。彼ら自身は「神様を愛する純粋な動機」でそうしていると主張するだろうけれど、結果を見ると、逆にその神様をないがしろにしている(この点については、これまでの記事を参照していただきたい)。
結局のところ、結果がその人の本質を表わすのである。
ここで、彼らがどのように「うわべ」を気にしているか、実例を挙げてみたい。
・「感動」が中心のメッセージ
彼らのメッセージを肯定的にとらえるなら、非常に感動的である。起承転結がよく考えられていて、聞いていて楽しく、最後の最後に「主の愛」に感動することができる。そして涙ながらに賛美・祈りに導かれていく。キーワードは「笑い→感動→涙」である。
彼らはそれを意図的にやっている。ある意味「語る才能」がある。
しかし裏返すと、非常に薄っぺらい。聖書は参考程度に開くまでだ。「今日は聖書をたくさん開きますよ、覚悟して下さい」とか言う時でも、さほど多くない。しかも誰もが知っている有名な箇所ばかりだ。もちろん引用箇所の数が全てではない。けれど感動させることが中心にあって、聖書はオマケ、あるいは感動の根拠づけ、程度の扱いなのは、説教として問題がある。
結果だけ見ると、会衆は大いに笑い、泣き、感動し、満足して帰っていく。信徒によっては「恵まれました」とかベタ褒めである(彼らの「恵まれた」は聖書に触れたことでなく、感動できたことでしかない)。だから「うわべ」においては大成功なのである。
ただし、彼らの説教をたとえば一年間聞き続けても、決して聖書講解はされない。
そういう人が「メッセージの深いところを読み取りなさい」とか言うのだから、困りものである。読み取るほどの深さがないのだから。
・会衆にも「見た目」を求める
たとえばメッセージ中、会衆が黙っていると、「不信仰だ」とか「情熱がない」とか言いはじめる。そして、「語られていることがその通りだと思うなら、信仰をもって応答しなさい」ということで、「アーメン」コールを強要してくる。結果、
「主はあなたを愛している!」「(全員で)アーメン!」
「主が今日あなたに触れられる!」「(全員で)アーメン!」
「主があなたに繁栄をもたらす!」「(全員で)アーメン!」
という有様になる。労働組合の決起集会か、デモ行進かといった様相だ。つまり全員の一致感とか、情熱とか、集会としての盛り上がりとか、そういう「見た目」が重要なのである。
あるいは、「腕組みしながらメッセージを聞くのは神様に対して失礼です。腕組みはやめて下さい」と講壇から主張する輩もいる。つまり神様が、腕を組んだり足を組んだりして話を聞く人間を不快に思っておられる、ということだ。
けれどイエス・キリストの時代は、寝転んだり飲食したりながら話を聞く習慣があったはずだ。それにたとえそうでなくても、神様が人間の物理的な姿勢を気にすることがあるだろうか。神様は「心を見る」はずだろう。
だから物理的な姿勢を気にするのは、やはりそれを言う輩本人なのだ。自分のメッセージを、ありがたそうに聞いてほしいだけだ。これもやはり、「見た目」の問題である。
また、「居眠りする人は神様に失礼だから出て行きなさい」と言う輩もいる。
これは居眠りする方に問題がないとは言えないけれど、やはりその根本には、自分のメッセージをありがたく聞けという主張がある。
いずれにせよ、神様ご自身は関係ない。メッセンジャー側の勝手な、「見た目」重視の要求に過ぎない。
・「証」という名の自慢
そういう輩は「証」をするのを好む。人を感動させるポイントが、体験談にあるからだ。「今日は講解説教です」とか言う時でも、結局のところ「証」が盛りだくさんだったりする。
そしてその「証」というのが、つまるところ「自慢」でしかない。会社の事業でこんな成功をした、祈っていたら探し物が見つかった、夕暮れの雲の形が十字架っぽかった、とか、ものすごく薄っぺらい。そして同時に、神様を召使同然に扱っている。
自分の「リア充」さを、アピールしたいだけだ。やはり、「うわべ」の話である。