クリスチャンの結婚にまつわる「ご利益主義」と「選民思想的偏見」

2014年8月16日土曜日

クリスチャンの結婚

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 結婚を希望するクリスチャンに対して、「結婚のために早く祈り始めなさい」とアドバイスする人がいる。結婚は大切な、あるいは難しいことだから、できるだけ長い期間祈って備えなさい、というような意味合いである。どうやら長く祈れば祈るほど、神様がよく働いて下さって、「良い結婚」ができる、という考え方のようだ。
 
 しかしそれは裏を返すと、たくさん祈らなければ良い結婚ができない、あるいは失敗する、ということであろう。祈りの労働量を数値化できればの話だけれど、その「祈りの労働量」に比例して「良い結果」が与えられる、という図式だ。巷ではそれをご利益主義と呼ぶ。巣鴨の「とげぬき地蔵」を撫でまわして病気を治してもらうというのを、本気でやるのと同じだ。
 
 その図式が本当に正しく、神様からきているものだとしたら、神様を信じていない人は結婚できないか、できても悪い目に遭ってしまう、ということになる。恐ろしい話である。そのうち、誰も結婚したくなくなるだろう。
 
 もちろん、私は「祈り」そのものを否定したいのではない。
 むしろ逆で、クリスチャンはいろいろなことについて祈るべきだと思っている。そうでなく私が異を唱えたいのは、祈ったら必ず良い結果につながり、そうならないのは祈りが足りなかったからだ、というご利益主義についてである(また、祈ったんだから良い結果をよこせ、という「神様=召し使い」的な考え方には、怒りさえ覚えている)。
 
 まして、結婚は非常に大きなライフイベントだし、きわめて個人的なことだし、願ったからできるものでもない。個人が努力したからどうこうという話でもない。だから他人がああなさいこうしなさいと、簡単に言うべきではない。ましてご利益主義の押し付けなど、もっての他だ。
 それに、そういう不要な助言によって結婚を左右された人が本当にいたとしたら、その助言者は責任を取れるのだろうか。仮に責任を取ったとして、完全に「後の祭り」ではないか。
 
 と、いうように結婚とは非常に繊細で微妙な事柄だけれど、クリスチャンの結婚となると、最近では更に難しい話になる。というのは、「クリスチャンはクリスチャンと結婚しなければダメだ。未信者との結婚なんて、絶対祝福されない」という話がよく聞かれるからだ。
 
 同じ宗教の相手と結婚した方が何かと都合がいい、というだけの意味において、私はその意見に理解を示す。事実、異宗教どうしの夫婦だと不都合なこともある。たとえば(わかりやすくするために極端な例を挙げると)、ヒンズー教徒と、吉野家で牛を捌いているクリスチャンとが結婚したら大変なことになる。一方が牛を神として崇拝するのをもう一方は是認できないだろうし、また一方が毎日牛を殺すのをもう一方は是認できないだろうからだ。そこまで極端でなくても、同種の実際的な不都合は、少なからず存在する。
 
 しかし、それだけだ。そういう不都合だけで裂かれる仲ならば、はじめから結婚には至らないのではないかなと私は思う。もう好きで好きでたまらない、どうにもならないくらいに盛り上がっているなら、あるいは全然盛り上がっていなくても「この人しかいない」と冷静に判断できているなら、そんな不都合は問題ではないと思う。
 
 だいいち、クリスチャンはクリスチャンとしか結婚してはいけないなどと、聖書のどこに書いてあるのだろうか。
 こう書くと、「つり合わないくびき」の箇所を持ち出す人が多いけれど、私に言わせると、それを結婚とつなげて考えるのがそもそもおかしい。「未信者とくびきを共にしてはならない」のがそういう意味なら、結婚だけでなく、たとえば会社で未信者の同僚とチームを組むのも、未信者の経営者と雇用関係を結ぶのも、未信者の会社と協働するのも、社会人野球で未信者とチームメイトになるのも、全部ダメだということになる。とにかく未信者と一定の関わりを持つのが祝福にならないのだったら、継続的な伝道さえできない。なぜ結婚にだけ当てはめるのだろうか
 クリスチャンでなければ評価対象にならない、いわゆる「選民思想」的な考え方ではないか。
 
 聖書をちゃんと読んでみれば、未信者の配偶者がいる場合について、パウロが言及しているのがわかる。未信者との結婚が禁忌であるなら、そういう言及は必要ないはずだ。それに未信者との結婚がそこまで悪いことなら、聖書に明記されるべきだろう。そういう明記がないのが何を意味しているのか、自分の頭で、よくよく考えてみるべきだと思う。
 
自分の子どもは絶対クリスチャンと結婚させる」と断言するクリスチャンがいたので、「じゃあ素行の悪い相手でもクリスチャンなら結婚させるのですか」と尋ねてみた。答えは驚きである。「クリスチャンならいつか神様に触れられて改心する時がくるから大丈夫です
 そのクリスチャンの子どものことが非常に哀れに思えた。良い結婚ができるよう、陰ながら祈るばかりである。

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