前回は「ハロウィンは悪魔の祝日だ」というラミラス氏の主張について書いた。カボチャの働きとか、仮装によって失われる救いとか、私に言わせればB級ホラー映画のレベルである、というのが結論だった。
ここで前回の記事を一部訂正したいと思う。この「B級ホラー映画のレベルである」というのを、「C級、いやD級ホラー映画のレベルである」に訂正したい。B級と言ったら、ホラー映画に対して失礼だからだ。
ああいう主張を「警告だ」と言う人がいる。カボチャや仮装の危険性を正しく伝えているのだから、ちゃんと言うことを聞かないと大変なことになる、という意味の警告だと言いたいのだろう。
ちょっと興味があるので、今回はこの「警告」について書いてみたい。
「警告」は、聖書にも登場する。有名なところで言えば、ノアの方舟だ。「これから人類を洪水で滅ぼす。だから信じる者は方舟に乗りなさい」(意訳)
結局この神からの警告に従ったのは、ノアとその家族だけだった。他の者たちはめとったり嫁いだり、普段通りに暮らしていた。そしてある日、本当に洪水が起こり、ノアたち家族を除く全人類が、死滅した。
これは明らかに、神が「警告」を発したと言える。
他にもエゼキエル書の「見張り人」の例があるだろう。敵が近づくのが見えたら、警告を発しなさい、というヤツだ。警告を聞いておきながら備えなかった者は死んでも自分の責任だ、とか、いろいろルールがある。
聖書に見られるこれらの「警告」に共通するのは、その警告に従わないと、必ず相応の報い(ノアの洪水で言えば死)を受けるという点だ。
これは人間全員に当てはまらなければならない。ある人は報いを受け、ある人は受けない、としたら不公平だからだ。もしこの不公平が許されるなら、大洪水の中、方舟に乗らずに生き延びた人がいたかもしれない。そうだとしたら、その警告はウソになる。「従わなくても大丈夫だったじゃないか」と言われるからだ。
だからこの場合、その警告には必ず報いがなければならない。例外は許されない。そういう意味で、これは「断定的な警告」と言える。
一方で、「○○しないと××になるかもしれない」という「可能性の警告」もある。この場合、その警告に従わずに××になる人と、従わなかったのに××にならない人とが存在することになる。たとえば「寝る前に食べると太るぞ」という警告に反して食べた場合、本当に太る人と、そうでない人とに分かれる。そういう警告もあるだろう。
ではひるがえって、「ハロウィン悪魔崇拝説」は、どちらの警告だろうか。断定か可能か。ラミラス氏の物々しい言い方からすると、断定であろう。ハロウィンを祝ったクリスチャンは、必ず悪魔を招き入れ、憑りつかれ、四代に渡る呪いを受けてしまう。それが神の忌み嫌う偶像崇拝であるならば、なおさら断定でなければならない。でないと神が偶像崇拝を許された、ということになってしまう。
では現実に、ハロウィンを祝ったクリスチャンは間違いなく全員が全員、悪魔に憑りつかれ、呪われ、見るからに不幸になっているだろうか。答えは否である。
こう書くと、「ハロウィンの夜は犯罪件数が増える」と反論されるかもしれない。けれどそれを証明する実際の統計データはないし、仮にあったとして、かつ事実であったとして、それはあくまで「増える」でしかない。ハロウィンを祝ったクリスチャン全員が不幸な事件に巻き込まれたということではない。
ということは、それは断定的な警告であったにもかかわらず、結果は不公平だったということになる。「ハロウィンを祝うと悪魔に憑りつかれるぞ」と言っておきながら、そうならない人がいるのだから、つまりその警告はウソなのだ。
罪に対する神の徹底した姿勢を見ても、そういう中途半端が許されないのは自明である。
だからラミラス氏が「命懸けで」したというこの警告は、結局のところ矛盾した警告ということになる。「こうなるぞ」と言ったことが起こらないのだから、そう考えるしかない。
ハロウィンを祝った子が実際にこんな目に遭った、とかいう体験談を持ち出して、反論する人がいるかもしれない。けれど正常な読解力を持っているなら、それが論点のズレた反論であるとわかるだろう。
繰り返すけれど、神からの警告ならば、従わない者は例外なく必ず報いを受けなければならない。報いを受ける人がいても、受けない人が一人でもいるなら、それは神の義に反している。それは神からの警告ではない。
と、熱く書いてしまったけれど、前回も書いた通り、私はハロウィンに何の興味もない。べつに悪いものとか、禍々しいものとか、そういうイメージもない。逆にすごく良いものだとか、そういうポジティブなイメージもない。
けれどそういう良くも悪くもないものが、殊更に邪悪なものとされ、必要以上に敵視されるのはおかしいと思う。そういう訳で今回も、ハロウィン擁護をしてみた次第である。
このブログに書き込みされる方々の年代を存じませんが、みていると思いだすなあと。遠い昔、「ノストラダムスの大予言」シリーズを熱心に読んでいて、いますぐにも、1999年にも世界が終わるのだと真剣に信じていたころを。
返信削除ご存じのとおり1999年はすでに終わりいまなお続いています。ふりかえってみたら、ああ、あんなものだねえ、と笑ってしまいますが。
福音派聖霊派の信仰の熱心さは認めつつ、しかし冷静さというか、一歩引いて考える、あたかも自分たちの立場や信仰が神に近いのだと、思い込みの度が過ぎてしまい、客観的にみられないのではないのではないかと思います。
この世の終わりは確かにあるでしょう。あるでしょうがそれは神さまの領域。人間になんかわかるわけはないし、いくら人間に示されたといっても、それを信じ込むのは危険すぎる。
そういう意味で、エンパワード21にせよハロウィーンをめぐりかぼちゃがどうの30人を殺すというのがどうの、あまりにもオカルト以前に、一歩ひいて考えられないおぞましさを覚えます。
信仰の熱心さは極端になると冷静さを失う、ということです。
スマイル
しかしまた、何で日本でもハロウィンをやるようになったのでしょうか。
返信削除やっぱり幼稚園や子ども英語教室とかで、何か楽しそうだから、いうところで始められたのでしょうかね。
ちなみに、保守的信仰のアメリカ人宣教師に、ハロウィンって聖書にないのになぜ教会が認めるのと聞いたら、そっぽを向いてました(笑)
野田様
返信削除いつもコメントありがとうございます。
福音派の一部が「幼稚なオカルト好き」なのは確かですね。何か特別な者でありたい、他者より抜きんでた者でありたい、という動機が垣間見えますし、そういう動機を手っ取り早く満たしてくれるのがオカルト嗜好なのだと思います。すでにキリスト教から逸脱してしまっているのですが。
スマイル様
コメントありがとうございます。
1999年の終末騒動に振り回されず冷静だった教会が、最近になって終末思想に走っている、なんてことも見受けられますね。教会もクリスチャンも、いつ道を踏み外すかわからない危うさみたいなものがあると思います。
ヘタレC様
いつもコメントありがとうございます。
ハロウィンが日本で流行りだしている理由は、やはり単純に楽しそうだから、なのでしょうかね。アメリカ至上主義的な発想もあるのかもしれませんね。アメリカのものはいいものだ、みたいな。