自己犠牲という免罪符

2014年8月3日日曜日

クリスチャンのパーソナリティの問題

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 キリスト教の象徴は何か、と問われたらどう答えるだろうか。
 キーワード的には「愛」とか「許し」とかいう答えがあるだろうし、可愛らしく言うなら「鳩」とか「オリーブ」とか「ブドウ」とか出てくるかもしれない。まあいろいろあるだろう。私はここでは「十字架」を挙げてみたい。

 十字架の意味するところの一つは、「自己犠牲」である。キリストが十字架上で、犠牲の死を遂げられたからだ。
 クリスチャンにとって、自己犠牲とは「美徳」であろう。「受けるより与える方が幸い」という聖句もある。誰かの益の為に自分が犠牲になることは、クリスチャンにとって、少なからずキリストに倣うことになる。そういう意味で「目標」とも言えそうだ。

 だから、それを良いか悪いかの二元論で考えるなら、良いことであろう。称賛され、推奨されることだろう。そしてそれはキリスト教界だけでなく、広く一般に言えるだろう。
 十数年前、JR新大久保駅で、酔った男性が線路に転落した。居合わせた日本人カメラマンと韓国人留学生が、線路に降りて救助にあたった。けれど3名とも亡くなってしまった。大変痛ましい事故だけれど、美談として大々的に取り上げられた。警察からも表彰された。そこには、自己犠牲に対する賛辞がある。

 このように良いものとして扱われる「自己犠牲」だが、私たちクリスチャンにかかると、これも変質してしまうことがある。

 クリスチャン歴の長い人に多いと思うけれど、「普段から自ら率先して犠牲を払う人」がいる。彼らは大小さまざまな犠牲を、日常的に払っている。お菓子を買いためておいて日曜ごとに教会の子どもたちに配るとか、困っている人を長期間自宅に住まわせるとか、責任ある教会奉仕をいくつも抱え込んで徹夜仕事ばかりしているとか、本当に献身的である。しかも心からやっていて、何の見返りも求めていない。立派である。

 しかしそういう人の全員が全員立派かというと、残念ながらそうではない。
 そういう人の一部には、「私が我慢すれば済むんだから」というような表現をよく使う人がいる。言葉だけ見たらこれも立派な犠牲である。しかしそこには、「私がこれだけ犠牲を払ってるんだから・・・」という心理が隠れている。この「・・・」に続くものは、大きく2種類ある。

①「私がこれだけ犠牲を払ってるんだから、あなたもそうしなさい
②「私がこれだけ犠牲を払ってるんだから、私の考え(やり方)が当然優先される

 つまり①犠牲の強要と、②自己の権利の主張である。②は自己愛とも言える。

 ①の犠牲の強要も困ったものだけれど、②の自己の権利の主張はもっと大きな問題となる。
 これは、自分が犠牲を払ったんだから自分のやりたいようにやらせろ、という心理に直結している。もちろん本人はそんなこと明言しないし、認めもしない。けれど結果的にそうなっている。話し合いの場でも自分の意見を強硬に通そうとするし、たとえ通らなくても、結局自分のやりたいようにやってしまう。
 その人にとって、「自己犠牲」とは「免罪符」なのである。それで教会を勝手に動かし、時に大きな問題を起こすことがある(その時には、劇場型の悔い改めショーが始まる)。

 しかしそれは詰まる所、見返りを要求する自己犠牲である。だから本質的には自己犠牲ではない自己犠牲とは見返りを何も求めない、何も主張しないで捧げるだけのものだからだ。彼らのは残念ながら、独り善がりな「疑似犠牲」でしかない。

 もちろん、表面的には素晴らしい犠牲の姿なのである。外からちょっと見ただけなら、非常に献身的で、愛に満ちた、キリストに倣う者である。だから余計に、そういう背後にあるものが見えづらい。
 また本人自身も気づいていないかもしれない。自分のしていることを、神のための純粋な自己犠牲だと信じているかもしれない。
 だからこそ、「人はうわべを見るが、神は心を見る」のであろう。

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