2014年8月20日水曜日

「目立たない奉仕」にこそ現れる人の本性

 プロテスタントが超教派の大会を開くことがある。最近で言えば、以前取り上げた「エンパワード21」とか、「リバイバル聖会」とか「トランスフォーメーションセミナー」とかがそうだ。主催側は一生懸命背伸びして、大きなホールを借りて大規模にやっている。大規模と言っても千人~二千人程度だけれど、夜の部はだいたい一杯になっているようだ。

 人が集まれば、必然的にその子どもたちも集まる。だいたい幼児から小学校中学年くらいまでの子が、夜は留守番させられなかったりなんだりで、親に連れられてそういう会場にくる。そこで、いわゆる「託児所」の出番となる。けれどその手の大会では、託児所という表現は使われず、「キッズプログラム」と呼ばれることが多い。子どもは子どもで礼拝をさせて、その大会の「恵み」にあずからせよう、という意図があるからだ。単に子どもを預かるだけの託児所とは違う、という意気込みみたいなものもある。

 そういうキッズプログラムを専門的に担当する教会がいくつかあって、その手の集会にはだいたいいつも呼ばれる。だから、たとえば関東圏ではどの大会に行っても、同じような顔ぶれのスタッフがキッズプログラム会場にいる。彼らは基本的に保育のプロではないと思うけれど(メンバーの中にはたまたまプロがいるかもしれない)、経験があるからか手慣れている。子どもたちも大概満足した様子で帰っていく。

 奉仕者には基本的に謝礼などなく、弁当と紙パックのお茶が配られるだけだ。それで子どもたちと遊んで笑顔で押しつぶされたり、絵本を読み聞かせたりあやしたり、オヤツを作ったり掃除したりと、本当にご苦労様である。私もスタッフに加わらせてもらったことがあるけれど、あれは片手間ではできない。キリスト教とかクリスチャンとか関係なく、やることだけで考えたら、完全に保育労働である。
 もっとも、大会全体から見たら小さな、目立たない一部分であるけれど。

 あるとき、ある大会のキッズプログラムに、大手(?)の教会も加わってきた。普段は舞台に立って歌ったり踊ったりすることが多い教会である。
 事前の打ち合わせで、それぞれの教会の担当時間が割り振られた。午前中はA教会、午後はB教会、夜はC教会、といった具合だ。大手教会の担当者が、「子どもたちのために仕えます!」とか熱く祈っていたのを覚えている。

 その大手教会は、その大会の舞台でも賛美したり踊ったりすることになっていた。だからそれと並行してキッズプログラムもするのは大変だろうな、と私は思っていた。

 そして期間中のある朝、大会に平和に参加していたら、実行委員の方に呼ばれた。何かと思ったら、キッズプログラムの受付に子どもが集まっているのに、担当者が誰も来ていない、とのこと。そのときの担当は、例の大手教会であった。急きょ、私の教会がキッズプログラムを担当することになった。と言ってももともと担当時間でなかったから、人数も準備も全然足りなかったのだけれど。

 後から大手教会の担当者に問い合わせたところ、「ああ、忙しかったから、手が回らなかった」との返事。担当の時間さえ把握していなかったようである。というか、謝られた覚えがない

 その大手教会が舞台奉仕をすっぽかした、というのは見たことがない。というか舞台では一生懸命に賛美して、祈って、すごいダンスを見せていて、本当に熱心なクリスチャンだな、という印象があった。そういう「仕える」教会が、キッズプログラムという人を預かる大切な奉仕をすっぽかしてしまうほどだから、よほど忙しくて大変だったのだろう、とその時は前向きに理解した。

 けれど、舞台という目立つ場所での奉仕と、託児所という目立たない場所での奉仕とで、どちらにより人の本性が現れるかというと、後者であろうと今は思う。そして目立たない所で誠実にできない人たちが、誠実とか真実とか愛とか、そういうことを壇上で真顔で言うのは勘弁してほしい

 また、この期に及んで「無償の奉仕なのだからそこまで要求されても困る」とか言うかもしれない。そう言う人は、もしキッズプログラムで子どもにケガをさせてしまったとしたら、その親に対して同じように言うのだろうか。ぜひ聞いてみたいものだ。

追記)
 ちなみに託児所の当番をすっぽかすというのは、どんなに忙しかろうが事情があろうが、あってはならない。というのは当然の一般常識であって、それがわからないとしたら、クリスチャンとしてどうかという以前の話になる。

3 件のコメント:

  1. いわゆる「ジャリ係」なんてかったるくてやってられっかよお!ということなのでしょう(笑)。
    オウムでは子供係というのは、サマナに割り振られるワークの中では最も格の低いワークだったようで、一番出来の悪いサマナのワークのように思われていました。だから上の人に叱られるときにも「そんなことだから、お前はいつまでたっても子供係のワークしかできないんだよ!」といわれたのです。
    ちなみに創価学会では子供係は「未来部」と呼ばれ、学会では信仰の継承のために大事ばワークと考えられており、「子供係をつとめて自分自身も成長した。担当した子供が生き生きした表情で『勤行やったよ!』といわれるのが無上の喜びだ」という未来部の人もいます。
    天理教では「こどもおぢば帰り」といって、子供たちのためのサマーキャンプがあります。天理の遊園地や動物園や博物館を訪れ、天理大学のお兄さんやお姉さんと遊んでもらえます(ちなみに信者以外の子弟でも参加できるそうで、子供時代に参加した経験のある人の話では本当に楽しかったといっていました)
    最近は新興宗教の二世三世の脱会ラッシュが止まらない勢いですが、創価学会や天理教でもそのような状況ですので、キリスト教系でも同じです。
    子供というものは、若いお兄さんお姉さんに遊んでもらったという楽しい思い出だけは持ち続けますが、新興宗教への信仰心は持ち続けることはできないということなのでしょう(笑)

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  2. ルカ16:10

    大事の前に小事を怠るなかれ、です。
    つか、子どもの世話は、けっして小さいことではないし!

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  3. 匿名様
    コメントありがとうございます。
    オウムや創価学会や天理教のお話、大変興味深く読ませていただきました。それぞれの宗教で子どもの扱いが違うのですね。創価学会はこの3つの中では最も大きく発展している宗教だと思いますが、それは「未来部」として子どもへの信仰継承を重視している姿勢と、無関係ではないように思います。
    また「子どもに力を入れる」という点では、ジーザスキャンプも方法論的には正しいところを突いているのかな、と思います。あんなのが広まっては困りますが。

    ヘタレC様
    いつもコメントありがとうございます。
    要するにそういうことですね。子どもを軽く見ている時点で将来がないような気がします。

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