2014年8月19日火曜日

「結婚相手の条件リスト」と現実のギャップ

 クリスチャンの結婚について4回目。

「結婚相手の条件リスト」の弊害について書いてきたけれど、当然ながら、問題はリストそのものでなく、そういうことを勧める人々の考え方にある。リストが有害なのでなく、それを用いた指導の方に問題がある、ということだ。

 だからやはり、教える側、導く側の責任は大きい。間違いは次々と連鎖していく。そして間違いでも何代も続けば、それなりに正しいと思われてしまうかもしれない。

 結婚に関して不要なアドバイスをする牧師や「先輩クリスチャン」にも同じことが言える。その助言に忠実に従ったせいで生涯独身を貫く羽目になった人がいて、「それこそ信仰だ」とか賞賛されるようなら、それに続く後輩たちはたまったものではない。そういう忍耐(?)がスタンダードになってしまうとしたら、もはや誰も結婚を願わなくなるだろう。

 けれど、あくまで私個人の感覚として書くと、そういう「先輩クリスチャン」たちは「いい人」ばかりだ。どなたも親切で、面倒見が良い。私も大変お世話になった。結婚のアドバイスにしても、彼ら自身は純粋に、良かれと思って(あるいは正しいと思って)話しているに過ぎない。
 ただ、善意なら何でも許されるかと言うと、残念ながらそうはならない。「いい人」なだけではいけない。やはり教えられたことについて、ちゃんと吟味する必要がある。

 教えられるということは、自ら学ぶということであって、何でもかんでも鵜呑みにすることではない。そこに、教えられる側の責任があるだろう。

 と言いつつ、(私の)先輩クリスチャンには本当に良い人が多いし、その人生経験からにじみ出る言葉や生き様は、真に尊敬に値する。結婚についても、含蓄ある言葉をたくさん聞かせていただいた。その中の一つを紹介してみる。

(先輩の談をまとめると)
 結婚は素晴らしいものだけれど、自分が想像していた素晴らしさとは違った。
 実は自分の結婚相手は好みのタイプではなかったし、理想とするイメージとも違っていたけれど、自分にとって必要な人であることが、結婚してからわかった。
 自分とは正反対の部分もあり、初めはよくぶつかったりしたけれど、相手との「違い」にこそ学ばされることが多かった。自分の見方とまったく違う見方があって、自分はなかなかそれを受け入れられないのだけれど、結果的にそっちの方が正しかったり、良かったりすることもあった。また考えもしなかった自分自身の内面の問題にも気づかされた。
 結婚は「愛のゴール」ではない。むしろ「スタート」である。理想の相手とスタートできたかどうかはあまり意味がない。というか、それが理想の相手だったかどうかはスタートしなければわからない。そしてスタートして、共に走り、共に乗り越え、共に立ち止まり、共に悩み、そしてまた共に進んでいく関係を作り出せたなら、それが理想の相手なのである。

 簡単に書くとこんな感じだ。まあ最近では結婚カウンセリングなどでよく聞く話である。けれどシンプルに、人生の真理を示していると思う。

 ちなみに、その先輩は例の「結婚相手の条件リスト」を、一応作っていたようである。けれど、「全然リスト通りではなかった」という。まあ、理想のイメージとは違ったと言っているから、当然リスト通りではなかったのだろう。けれど上述の通り、結果的に「良い結婚」ができた訳である(なぜリスト通りでない相手と結婚しようと思ったのか、そのへんはよくわからない)。

 ところでその先輩が、他の信徒に例のリストをしきりに勧めるのには、閉口してしまった。「思いつく限りたくさん書いたほうがいい」とか真剣に話していて、その熱意は素晴らしいのだけれど、リストが不要、あるいは役に立たないという事実をご自身が証明しているということには、まったく気づいていないようである。

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