クリスチャンの結婚にまつわる「ひたすら祈って待つ」姿勢の弊害

2014年8月18日月曜日

クリスチャンの結婚

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 クリスチャンが「結婚相手の条件リスト」を作ることで、かえってそのリストに縛られてしまう、ということを前回書いた。今回もその続きとして、リストがもたらす別の弊害について書いてみたい。

 条件リストを掲げて忠実に祈ることは、そのリストに完全に合致する相手でないと結婚できないということなので、項目数が増えれば増えるほど、難しい話になっていく。それで長い歳月ひたすら「祈って待つ」ことになり、いわゆる「適齢期」が過ぎてしまうこともある(適齢期を過ぎたから結婚できないという話ではない)。
 けれど「そこは信仰だ」「忍耐して待て」という我慢大会を強いる輩もいるし、教会奉仕が忙しくて正直「結婚どころではない」という場合も多いから、結果的に、結婚できない(しない)人が多くなっていく

 そういう人がどういうメンタリティを持つか、共通項と思われる部分をまとめると、こうなる。

「結婚のために神様に祈っている」
「神様は真実だから必ず答えて下さる」
「でも何の兆しもない」
「ということは自分はまだ結婚には早いのだ」
時がくるまで待つしかない

 つまるところ、「ひたすら祈って待つ」ことになる。
 すると、全員が全員そうかどうかわからないけれど、結婚に対して極端に受け身になってしまう。「神様がいつか出会わせて下さる」と純粋に信じているからだ。結果、「結婚は神様からの贈り物だから、自分でどうこうするものではない」というような考え方に固定化されていく。

 もちろん、全ては神様から与えられたものと信じるのがキリスト教な訳だから、自分の命も含めて、「全て神様からの贈り物」と考えるのは正しい。けれどそれと受け身な姿勢なのとは、必ずしもイコールではない。

神様がいつか出会わせて下さる」というのは、一見とっても敬虔だけれど、結婚のお膳立てを誰かにやってほしい、人任せにしたい、という他力本願が少なからず含まれている。
 それと同類の主張に「結婚相手は神様に決めてほしい」というのがあり、一部では「すごい信仰だ」と評され美談のように扱われているけれど、つまるところ自分で相手を決められない、自信がない、失敗したくない、という「逃げ」が含まれている。非常に臆病、あるいは卑怯ではないか。他人(それは神様かもしれない)に決めてもらった結婚相手と結果的にうまくいかなかったら、「自分は信仰をもって従っただけなのに」と自己弁護できるからだ。結婚相手も人のせい、結婚も人のせい、結婚の失敗も人のせい、という訳だ。

 人間に自由意思と選択の自由が与えられている理由を、今一度考えてみる必要がある。
 昨今の福音派・聖霊派のほんの一部だけの話かもしれないが、「神への従順」ばかりが強調され、個々のクリスチャンの自己決定、決定責任という視点が失われている気がしてならない。決めるのはいつも牧師一人であり、信徒はそれに従うだけ。これでは確かに、信徒は受け身にしかなれない。
 そして結婚という人生の一大事においてさえ受け身なのだとしたら、その人の人生はいったい誰のものなのだろうか。
 ここで「もちろん神様のもの」と答えるのは、信仰モドキのキレイ事なのでやめていただきたい。

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