2014年8月17日日曜日

クリスチャンの結婚にまつわる「結婚相手の条件リスト」の弊害

 クリスチャンが結婚を望む時、現代日本においては、「ご利益主義」と「選民思想的偏見」という二つの誤解を押し付けられることがあるので注意しなければならない、と前回書いた。今回はその続きとして、結婚に関して「相手の条件をリスト化する」ことの問題点について書きたい。

 結婚を願うクリスチャンに「早く祈り始めなさい」と勧める人がいるけれど、同時に「結婚相手に望む条件をリストにして、具体的に祈りなさい」と言う人もいる。つまり、自分が理想とする結婚相手を具体的にイメージし、その条件を項目別に挙げて「結婚相手の条件リスト」を作り、そのリストに適合する異性を祈って探せ、というようなコンセプトだ。個別のケースを挙げたらキリがないけれど、たとえば年齢は〇〇歳から〇〇歳までで、仕事は△△系で、性格の要素はこうでこうでこうで、とか、細かくリスト化していく。そして毎日とか週に1回とか、そのリストを掲げて神様に祈るのだ。実例として50項目とか、100項目とか、それ以上のリストを作ったというのを聞いたことがある。中には「リストの条件を全て満たす人と結婚できました。ハレルヤ」と言う人もいる。

 私はそういうリスト化を頭から否定しようとは思わない。メリットもあると思うからだ。たとえば結婚の条件をリスト化することで、まだ見ぬ相手をイメージしやすくなるかもしれないし、迷った時の指標となるかもしれない。またそのリストそのものが、実は自分自身を顧みるキッカケとなるかもしれない。

 けれどそのリストは、よほど熟慮に熟慮を重ねて完成させなければならない。そしてその点が、そのままデメリットとなる。

 初めてそういうリストを作ろうとする時、その人はたいてい未婚のはずだから、未経験ゆえの非現実的な項目をリストに挙げてしまうかもしれない。たとえば女性なら「ハンサムで優しくて頼もしい人」とか、男性なら「きれいで優しくて器量が良い人」とか、探すのに相当苦労しそうである。探すだけで一生終わってしまうかもしれない(というのは冗談だけれど)。

 しかしそのリストに信仰(?)が絡むことによって、問題はさらに深刻になる。
 というのは、リスト制作者はそのリストを掲げて主の御名によって祈る訳だから、その全ての項目が必ず満たされると信じて祈ることになる。たとえば10項目を挙げたとしたら、9項目まで満たす人では不十分なのだ。その人がどんなに素晴らしく、相性が良いと感じても、その人と結婚するのはリストを反故にすることであり、神様に捧げてきた祈りを反故にすることである。また信仰を妥協することにもなる(と本人は感じるだろう)。
 そうなると、自分の希望を整理するために作ったリストに、かえって縛られることになる。自分で選んだはずの条件なのに、結果的に、自分で結婚相手を選べない、ということにもなる。
 
 いや、妥協してはいけない、あくまでリストの全てが満たされるまで祈るべきだ、祈りの成就を忍耐して待つべきだ、と主張する人もいる。それを「信仰」と言うなら、確かに妥協することは不信仰なのであろう。しかし、「リストの全てが満たされました、ハレルヤ」と言う人が全体の中でどれくらいいるのだろうか。データはないから私の体感として書くしかないけれど、ほとんどいない。リストをかたく握りしめたまま、歳月だけが過ぎていく、そういう人が大半ではないだろうか。

 感覚的には「この人ではないか」と思えても、リストに反するゆえ諦めなければならない。あるいは感覚的には「ちがう」と思っても、リストの合致するゆえ結婚しなければならない。
 そういう状況が本当にあるとしたら、私には「信仰」というより、「我慢大会」に思える。
 
 また、リストを握りしめたまま数十年が過ぎたとしたら、どう考えたらいいのだろうか。「自分には独身の賜物が与えられていたのだ」と悟るべきだろうか。だとしたら、結婚を願って祈ってきた歳月はどうなるのだろうか。
 あるいは不信仰のゆえ祈りが聞かれなかったのだと考えるべきだろうか。それとも祈りが足りなかったのだろうか。罪があったのだろうか。
 もしそれが神様のなさる業、あるいはなさらない業なのだとしたら、ずいぶん無味乾燥な、他人行儀な神様だ。いったいどこに愛があるのだろうか。十字架はいったい何だったのだろうか。
 と、いう話になるだろう。

 だからクリスチャンが結婚相手の条件をリスト化するのは、メリットよりもデメリットの方がはるかに大きい、と私は思う。

2 件のコメント:

  1. 自分の望みの条件のリストを作って、そんな人と出合えるように祈れる自由があるなら、そこはまだましな教会といえましょう。
    某新興宗教系プロテスタントでは、望みの条件のリストを作るとか、お望みどおりの理想の人と出合えるように祈るとか、そんな素敵な発想すらありませんでした。
    そこではただひたすら献金と奉仕に明け暮れます。物質的にも肉体的にも精神的にも全員くたくたに疲れ果て、時間の余裕もなくぼろぼろでした。結婚したいと思ったら、とにかくまずその新興宗教団体のためにすべてをささげ尽くすことを義務付けられました。
    教祖から献金や奉仕をしっかりやっていると判定されたときにはじめて自分も結婚をしてみたいと教祖に打ち明けることができました。教祖が「どれでも好きな兄弟(or姉妹)をもっていっていいぞ。」といわれれば、それでようやっと好みのタイプの異性を持っていけるというわけです。もし教祖から「この人はまだまだ。」と判定されれば、結婚をしたいし実はいいと思っている兄弟や姉妹がいるとどれだけ泣いて頼んでも、「お前はまだまだ献金も奉仕も足りないから、もっと教団の活動をしっかりやってからじゃないと結婚するのはだめだ。」といわれて、結婚したいと思っても100%不可能でした。
    教祖が応諾しないと結婚どころかお付き合いすることも絶対に許されなかったのです。一見すると、自分の好きな異性を持っていっていいといわれているので、恋愛する自由があるようにみえるのかもしれませんが、配偶者の選択肢は極めて狭い範囲であり、もちろん教祖の応諾がない限りはだめですから、実質的には統一教会のように教祖が結婚を決めていたようなものだといってもいいと思います。統一教会との違いは、結婚式だけはさすがに集団ではなかったことくらいでした。

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  2. かの有名な(?)著書、第四次元・・・の影響ではないでしょうか。私も信仰の諸先輩方からとにかく具体的に祈った方がいいよ~!!!と十数年前に言われたことを思い出しました。容姿に始まり、思いつくことなんでも!といった感じでした。謙遜なw私は10個に絞って祈ったことを覚えています。今思うと、絞ったあたり、私は心底諸先輩方のアドバイスを信用していなかったのか、、、不信仰だったのか。。。という感じです。なつかし。

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