勘違いだとしたら大変なことになりそうな「主の臨在」

2013年12月3日火曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
 知人からこんな話を聞いたことがある。

 ある日曜の礼拝後、あるクリスチャンが「今日の礼拝もすごい臨在だったね」と嬉しそうに話しかけてきた。言われた知人は適当に相槌を打ったけれど、実は臨在らしきものは少しも感じていなかった。自分が鈍いだけなのかな、普通なら何か感じるのかな、等と思ったという。

 同じような経験は私にもある。「すごい臨在だったね」「今日はパワフルに語られたよね」「涙が止まらなかったよ」そう言われた私自身はそうでもなかったので、笑顔でごまかすしかなかった。

「臨在」というのは「神様の臨在」のことだけれど、こういう場合は「神様がそこにいる」という存在を表すというより、「力強く働かれている」というような、神様側のより能動的な姿勢を表しているように思う。そしてこの言葉を好んで使うのは、ほとんど聖霊派だろうと思う。

 その主張の根拠となるのは、賛美礼拝が勢いがあって力強いとか、メッセージが感動巨篇で涙が止まらないとか、自分の内側から不思議と力が湧き上がってきて大声で叫んでしまったとか、そういうどちらかというと「感覚的なもの」に終始している。

 それらが全て臨在でないと言うつもりはない。けれど、たとえば一般のプロのアーティストのライブとか、有名劇団の舞台とか、ダンスパーティとかクラブとか、そういう日常離れした空間で、「感覚的に」感じるものを比べてみて、それらが「主の臨在」とどう違うのか、考えてみても決して損にはならないだろうと思う。そしてそれらが明確に違うと断言できないなら、その「主の臨在」とやらについても、もう一度冷静になって考えた方がいいような気がする。

 それが本当に主の臨在であるなら問題ない。逆に素晴らしいことだと思う。けれどもし違うとしたら、ひどく馬鹿げた茶番を繰り広げていることになる。神様とまったく関係ないところで「臨在だ」「いのちだ」と喜んで踊ったり、泣いたりしているということになるからだ。

 数学の計算は、誰もが学生時代にしたことがあるだろう。あれは最初の方で計算ミスをしてしまうと、残りすべてが間違いとなってしまう。膨大な計算であればあるほど、初めのミスが命取りになる。途方もない無駄骨、ということにもなるだろう。

 学校のテストでそういうミスを一度するくらいなら、大したダメージではない。しかし「これこそ主の臨在だ」と勘違いしたまま長い人生を送ってしまうとしたら、それはどれほどのダメージとなるだろうか。

QooQ