終末に向けて何を「備える」べきなのか

2013年12月2日月曜日

キリスト教信仰

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「来たるべき終末に対して、今から備えていかなければならない」
 ということで、具体的に準備している教会というのを見たことがある。どんな準備かというと、食糧や飲料水を備蓄したり、避難施設を購入したり、自給自足を目指して農業施設を準備したり、というようなことだ。そういうことで、「私たちは主の再臨に備えている」と言ったりする。けれど、それらはどちらかというと「災害対策」で、再臨に備えることと直結するのかどうかはいささか疑問ではないかと思う。

 もちろん黙示録など見ると、方々で災害が起こって大変なことになりそうだと予想できる。その時には何も備えていないより、少しでも準備しておいた方がいいような気がする。けれど備蓄にしても避難施設にしても農業施設にしても、そこが絶対安全で被災することはない、とは言えない。下手すると全ての準備がパーになり得る。だからそういうことが、神様が言っている「終末に対する備え」なのかどうか、怪しいのではないだろうか。

 この手の話には、新約聖書の「花婿を出迎える10人の娘」の話がよく引用される。10人のうち5人は賢くて、ともしびと予備の油を持っていた。しかし愚かな5人は予備の油を用意していなかった。その結果は、両者を大きく隔てることになる。
 この例が使われて、だから実際的な準備をしていなければダメだ、という話になる。それはある意味事実を含んでいるだろう。けれど、だからといって災害対策に直結することが神様の言う「賢さ」なのだろうか。

 そしてそういう教会は一方で、終末に対する備えとは「心の準備」のことだ、とも言う。主をお迎えするにふさわしい「心」を準備する、ということで、弟子訓練とか長時間礼拝とか過重な奉仕とか(それら自体は決して悪いものではないと思うけれど)を奨励する。あるいは事実上強要する。

 それで終末に向けた心が準備されるかというと、逆ではないかと私は思う。やることに追われて忙しくなり、慢性疲労状態になるからだ。そして結局言われたことをやるだけなので、自分の頭で考えているつもりが、実はそうではなくなっているからだ。
 マタイ24章はイエス・キリストが終末について多く語る箇所だけれど、まずはじめに「人に惑わされないように気をつけなさい」と言ってることに注意しなければならない。いつも疲れ、正しく考えられなくなっている人が、どうやってそれに対抗できるだろうか。

 という訳で、物質的にも精神的にも、トンチンカンな「備え」をしてしまう危険性は誰にもあると思う。
 じゃあどういう備えをするべきなのか、という話になる。それでいろいろな人の教えや助言を聞くのは良いことだと思う。けれど最終的には、私も含めて各人が考えて決断すべきであろう。

 それが「賢い」判断であることは、誰もが願っている。けれどそれを一番願っているのは、神様ご自身ではないだろうか。

追記)
 終末が近いような前提で書いてしまった気がするけれど、そういう趣旨ではない。終末がいつかは、誰にもわからない。
 ちなみに「終末が近い」と人々を恐怖させるのは破壊的カルトの常套手段の一つと言われている。終末を強調する教会は、それ自体は問題ではないけれど、そういうことはちゃんと理解しておいた方がいいと思う。

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