人それぞれ価値観や考え方は違うので、「意見が合わない」のは当然で、私たちは日常的にそれを体験している。それは時にはちょっとの妥協で済ませられる場合もあるけれど、時には冗談にならない衝突になることもある。
それは要は「意見が合わない」度合いの問題だと思う。誰しも、譲れることと譲れないことがある。そして(極端な例だけれど)絶対に譲れないことを強要されたら対立するしかない。その対立は、自分が譲るか相手に譲らせるかするまで、終わらないのではないか。
そこらへんで起こる小さなケンカから世界規模の戦争まで、要はそういう理屈に支配されているような気がする。そしてそれは、基本的に人が、自分の見解が一番正しいと思っているからだろうと思う。
とはいえ、自分が正しいと思うこと自体は、べつに問題にはならない。問題は何が何でも(暴力を行使してでも)自分の主張を通そうとするところにあると思う。単に意見が違うと議論するなら建設的だけれど、自分の正当性を貫くために相手に強要し、あるいは奪い、あるいは拘束し、あるいは殺したりするとしたら問題ではないか。そしてそれが正義だと自負しているとしたら尚更問題が大きいのではないだろうか。
2003年のアメリカ映画に『エレファント』(カズ・ヴァン・サント監督)というのがあって、コロンバイン高校銃乱射事件をモチーフにしている。映画の終盤、高校で生徒による銃乱射事件が起こるのだけれど、そこに至るまでの展開に、工夫が凝らされている。事件発生までの数時間を、各生徒の視点で順番に繰り返すという手法が取られているのだ(これは実際に観てもらった方がわかりやすいかもしれない)。
例えて言うと、生徒Aの視点で観た学校生活が、次に生徒Bの視点で繰り返され、また次に生徒Cの視点で繰り返される。だからAくんの視点ではBさんは一瞬の通行人なのだけれど、Bさんの視点ではAくんもまた通りすがりの一人でしかない。だから「学校生活」という何か得体のしれないモノを、観客は何人かの視点で垣間見ることになる。
この手法は計算されたもので、『エレファント』という題名の由来にも関係している。「群盲象を評す」という寓話(インド発祥)がその由来だ。何人かの視覚障害者を象の周りに立たせ、それぞれの立場で象を触らせてみると、それぞれ「大木だ」とか「ヘビだ」とか「うすっぺらいぞ」とか評する。けれど、その全体像はつかめない。
これは上述の「意見の相違」にもつながる話だと思う。人はそれぞれ自分の視点、自分の立場からしか物事を判断できない性質があるから、同じものを見た他人の見解が自分とまったく異なっていた場合、受け入れ難くなってしまう。けれど自分の把握している分が物事の全体像かというと、そうではなかったりするのだが。
それに加えて、人は自分のことを正当化したいと思うものだから、誰かとぶつかった場合「相手が悪い」と言いやすいものだ。けれど相手は相手で、こちらが悪いと信じて疑わない。だから「正当化のぶつかり合い」みたいなものが、果てしなく続くのが人の世なのかもしれない。
聖書を読むと、全ての人が死後、「裁きの座」につくことになると書かれている。そこで神様によって、地上での行いに応じて裁かれることになる。それは想像するとちょっと怖くなるけれど、しかし必要なことでもあると思う。何故なら誰もが自分の正当性を信じているけれど、その中にはひどく間違っていることもあるはずで、それはハッキリ示されるべきだと思うからだ。
日本の刑法で裁かれず、かつ誰にも咎められず、しかし確実に誰かを傷つけ不幸にしておいて正義ヅラしている輩がいるとしたら、そういう絶対的な裁き以外に彼を裁く方法はないだろうと思う。
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