日曜に働かないクリスチャン…?

2013年7月10日水曜日

キリスト教信仰

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 熱心なクリスチャンほど、日曜日に働くのを避ける。

 それは教会の日曜礼拝に毎週出席するためだし、「安息日を聖とせよ」(出エジプト20章8節)という聖書の言葉を守るためであろう。だから社会人のクリスチャンであれば日曜に働かなくていい仕事を選びたいだろうし、学生であれば日曜に活動しない部活を選びたいだろう。
 それは自然なことだし、そうできるならしたらいいと思う。

 が、上記の聖書の言葉を民族形成期から教えられてきたユダヤ人と、その他の民族とでは、明らかに状況が違うだろう。というのは、ユダヤ人は毎週安息日(ちなみに土曜日だ)に休むことを前提に社会を形成してきたのに対して、その他の民族はそういう価値観のまったくない社会を形成してきたからだ。
 だから現在多くの国が、一週間のうち一日も機能が停止しない社会となっている。警察も消防も医療福祉もメディアも政府も、土曜だからとか日曜だからとかで休む訳にはいかない。もちろん日曜に必ず休める人もたくさんいるけれど、休めない人も少なくない。

 となると、クリスチャンになっても毎週日曜に礼拝に出席できない人というのは相当数いて、「安息日を聖とせよ」は必ずしも全員が遂行できる命令ではない、ということになる。少なくとも日本においては。そしてそれは個人の責任でなく、社会全体の責任だろう。

 また、毎週日曜に必ず礼拝に出席しているクリスチャンが、その日曜に休めているかというと、そうでもない。教会の奉仕がいろいろあって、かえって平日より忙しいなんてこともある。

 ある教会は礼拝のメッセージを毎回録音していて、礼拝後、それをCDやMDにコピーして、欠席者やら遠方の信徒やら求道者やらに送るサービスをしている。それを言い出したのは牧師だろうが、実際にやるのはPAマンとかで、日曜はいつまでも教会に残ってその送付作業をしている。彼らは朝だって早いから、労働時間で考えたら一日十時間は軽く越えるているだろう。他にも同じような状況になっている人は大勢いると思う。

 彼ら自身が喜んでそれをしているなら問題ないだろうが、彼らにとって日曜が休みでないことは確かだ

 そもそも安息日の規定を含む「律法」全体は、人間の益のために神が備えたものだ。
 安息日に働いてはならない、というのは確かに命令口調だが、人間は本来、一週間に一日完全に休むことで良好な状態を保てるように造られているそうだ。その休みを全員平等に確保できるように、との神の配慮があっての命令だと私は考えている。

 だから日曜に礼拝に出ればいいんだとか、奉仕すればいいんだとか単純に考えるだけで、そういう本来の目的とか神の意思とかに思いを馳せないのもどうかと思う。下手すると熱心なクリスチャンほど御心に反する、ということになりかねない。それでいて「御心を求めてます」とか言うのは、見当違いもいいところだ。

 キリスト教を標榜する某学生会が出版した、クリスチャンの職業選択に関する書籍がある。そこには明言こそされていないものの、背後にある考え方は「日曜に休める職業につければ勝ち組クリスチャン」というものだ。
 彼らが考えているのは単純な椅子取りゲームみたいなもので、社会全体がどうとか、神の御心がどうとか、そういうことはあまり関係ないようだ。

 単に私の読解力が足りないだけかもしれないが。

追記)
「安息日を聖とせよ」という箇所には明確に「働いてはならない」と書いてあるが、ある牧師らは「聖とするとは礼拝するという意味だ」と解釈して、礼拝に係るすべの奉仕を「労働ではない」と定義してしまう。が、それは読解力がなさすぎる解釈だろう。

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