クリスチャンと仕事と貯金

2013年7月8日月曜日

キリスト教信仰

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 正直なところ、金銭管理はクリスチャンにとっても悩ましい問題だと思う。

 特にどこかの教会員であるなら、「十分の一献金」のような定例献金の他、礼拝などの集会の度に献金があるし、ゲストが来れば海外宣教のためとか児童福祉施設のためとか、イレギュラーな献金も発生する。なかなか貯金できないのではないだろうか。

 しかし確かに、「十分の一」は別として、献金は基本的に自由である。捧げるも捧げないも、捧げる額も、本人が自由に決めていい。が、それは建前みたいなものだ。実際日本人の教会員なら、献金箱が回ってきたら献金する人がほとんどだろう。捧げるにしても、小銭では憚られるという人も多いのではないだろうか(そこには多分に見栄が含まれている。もちろん純粋に捧げたいという気持ちも含まれているが)。

 聖書を総合的に読むと、献金を奨励しているのがわかる。第二コリント9章は「多く蒔いた者は多く刈り取る」「喜んで捧げる者を神は愛して下さる」等と言っている。それを裏付けるのはマタイ6章33節の「神様を第一にしたら必要なものは与えられるよ」である。つまり捧げたクリスチャンの生活保障は神ご自身にある、ということだ。

 これは決して金銭を持っていはいけないということではない。神も「あなたがたにお金が必要なのはわかってるよ」と言っている。が、にもかかわらず、貯金することに抵抗を覚えるクリスチャンがいるようだ。貯金する余裕があるなら宣教団体に寄付すべきだ、と言うくらいならまだいいが、そうしなければ不信仰だくらいに主張する人までいる。

 私は神が生活を保障して下さると信じているし、実際にそうやって捧げてきたつもりだ。が、だから金銭について考えなくていいなどとは考えない。むしろ、将来に備えて積極的に貯金することも非常に重要だと考えている。

 自分や家族を顧みずに捧げるのは、信仰的だったり献身的だったり見えるかもしれない。が、子どもの将来や年老いた両親の世話や、自分自身の老後のために備えるのは、いたって常識的なことだし、必要なことだ。必要以上の贅沢ではないし、自己中心でもない。むしろそういうことを無視して、あるいは神頼みにして、教会生活にばかりこだわる方が偏った信仰であろう。

 もちろん天涯孤独の身で、どんなに貧しくても構わない、というなら話は別だろうが。

 時々、牧師や宣教師が子どもの進学費用が与えられるように祈っている、という話を聞く。しばらくすると「与えられました。ハレルヤ!」と喜ぶ場合もあるが、そうでなくて「道が閉ざされました」とうなだれる場合もある。彼らがどうしようが勝手だが、そうやって子どもの将来をギャンブルみたいに扱うことは私にはできない。祈って何とかしようと思うよりは、祈りながら働くとか、奨学金制度を片っ端から調べるとか、子どものために自分が実際に労すべきだと思う

 聖書は骨折って働くことも推奨している。献金とか奉仕とか「献身」とかに夢中になって社会常識を無視するよりは、地道に毎日働く方が、よっぽど価値があると私は思う。

追記)
 私が愛用しているYouVersionの聖書アプリの今日の御言葉は、箴言15章16節である。リビングバイブル訳だとこうなる。

「財産があるばかりにあれこれ気を使うより、貧しくても神様を信じながら生きるほうが幸せです」

 同意するけれど、財産のための最低限の気を使わないのは無責任というものだろう。

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