「神の家族」の真実は

2013年7月31日水曜日

キリスト教信仰

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 私の教会で、「神の家族」という賛美をよく歌った。こんな歌詞だ。

 主が愛されたように 私たちも愛し合う
 主が許されたように 私たちも許し合う
 神の家族 神の家族 神の家族 神の家族

 教会によっていろいろだろうが、私たちは信徒どうし兄弟、姉妹と呼び合った。神にあって一つの家族だ、という信仰だからだ。パウロもその書簡の中で、信徒たちを兄弟と呼んでいる。

 聖書がそれを言う真意は置いておくとして、私の教会では、この「神の家族」という概念が重要視されていた。同じ教会員であれば、男性であれば自分の兄弟、女性であれば自分の姉妹、その子どもは自分の子ども、という共通理解が長年かけて形成されていた。

 それはそれで良い面がある。幼い子どもやお年寄りの面倒をいろいろな人がしてくれるし、互いの必要を補い合える。私も子どもの服をもらったり、病気の時に助けてもらったりした。

 
 他人どうしが、どんな時も愛し合い、許し合い、家族としていつまでも一緒に過ごす、というのは素晴らしいことだろう。夫婦はその典型と言える。私の教会の「神の家族」も、いつまでも続くと思っていた。

 が、私のそれはすでに存在しない。牧師の不正発覚と失踪以後、皆バラバラになってしまった。個別の事情があって一概に言えないが、激しい諍いや争いもあった。残念ながら、そこに愛し合い許し合うという姿はなかった(仲の良い家族ほどケンカするものだと言うかもしれないが、それはお気楽すぎる)。

「神の家族」を不動のものと信じていたが、どうやら違ったようだ。
 あるいは家族ではあったけれど、いわゆる試練に耐えられなかったのかもしれない。

 信徒全員が「神の家族」だとする教会は少なくないだろうし、その通りに歩んでいるのだろうと思う。
 が、その真価が問われる時にどうなるか、各自がよく考えなければならないと思う。願わくは「試練」にあってもなお一致できる、信じ合える家族であってほしいということだ。

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