信仰というより、流行に飛びついているだけでは…?

2013年7月30日火曜日

キリスト教信仰

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 2009年7月のこと。今は亡き母教会が、「ダビデの幕屋の回復」とか「イスラエルのために祈る」とか言い出した(言い出しっぺは牧師だが)。
 そして「24時間連続の礼拝」とか、「離散しているユダヤ人たちをイスラエルに帰還させる」事業とか、準備しはじめた。

 この時牧師が強調していたのは、「これは私たちの教会に特別に与えられた啓示だ。終末の時代の真理だ」ということだった。神の秘密の啓示だから、他の多くの教会が、今はまだこの真理を悟ることができない、だから私たちが先駆けとなって、この真理に生きなければならない、というような話だった。

 私たち信徒は喜び勇んで、この「崇高な」務めに専心したものだ。早朝4時から集まって祈り、日中の活動を終えたらまた集まり、深夜まで礼拝する。「神からの啓示」と個々が信じることを声高らかに宣言し、歌い、踊った。そしてそういう啓示が与えられる自分たちは特別な存在なんだ、と喜んだ。

 イスラエルのために祈ることも、離散した人たちを助けることも、基本的には良いことであろう。人道的でもあると思う。

 が、そのムーブメントが教会に急速に広まった背景に、本当にユダヤの方々を思う気持ちがあったのかどうか、怪しいものだと私は思っている。
「ダビデの幕屋の回復」(すなわち24時間連続の礼拝)にしても、本当に神の御心の回復(?)を喜んでのことなのか、それとも「目新しいもの」に夢中になってのことなのか、入り混じっていて判然としないように思う。

 それが本当に聖書的なのか、神の御心なのか、そしてそれに対する私たちの動機が何なのか、もっと時間をかけて吟味すべきだったと思う。新しく入ってきたムーブメントに安易に飛びつきすぎたのだろう。

 私たちの無知も原因の一つだ。
 いわゆる「シオニズム運動」は19世紀末に始まったものだし、その思想そのものは、もっと以前から存在していたはずだ。「ダビデの幕屋の回復」にしても、ここ最近の話ではない。まだ詳しく調べていないが、少なくとも数十年前から言われている。
 つまり、何も新しいことではないのだ。
 私たちはそんなことほとんど調べずに、自分たちこそ御心を知っていると自負していた。

「玉石混交」とは、現在の聖霊派を指すのにピッタリな言葉ではないかと思う。
 多くの人が純粋に神を信じ、人を愛する気持ちを持っているのだけれど、 隠れた欲望や怠惰や傲慢が、手を替え品を替え、私たちの信仰や聖書理解を少しずつ汚染していく。だからある部分は良いのだけれど、ある部分は悪い。そして全部が悪い訳ではないから、問題が見えにくい、ということになる。

 現在、日本の聖霊派の教会に、このシオニズムや「ダビデの幕屋の回復」が急速に広まっているようだ。

 それそのもは決して悪いものではないと思う。が、それを扱うクリスチャンの側に曲がった動機や未熟さがあるなら、それは簡単に無意味なもの、悪いものになる。

 不正が発覚する数週間前、牧師はダビデの幕屋の礼拝の中で、「フリーメーソンが私たちの事業を邪魔している。もっと身を引き締めて祈るんだ」と言っていた。が、私たちはそれを大真面目に信じていた。

「ダビデの幕屋の回復」を神が願っているとしても、少なくともそんな礼拝を喜ばれるとは、誰も思わないだろう。

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