クリスチャンホームだからこそ安心できないことがある

2013年7月29日月曜日

キリスト教信仰 教育

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 前回に続き、クリスチャンホームについて書きたい。

 キリスト教に限らず、家族全員が同じ宗教というのは、いろいろな面で都合がいいと思う。クリスチャンで言えば、個人の祈りが邪魔されることもないし、賛美歌を流すのも自由だろう。家庭で礼拝もできる。同じ教会であれば、いろいろな教会活動を共有できる。良いことだらけのように思える。

 が、何にでも長所と短所があるように、クリスチャンホームにも短所があると思う。

 私が思うクリスチャンホームの最大の短所は、前回書いた通り、家庭生活と教会生活の境界が曖昧になってしまうことだ。
 その中でも末期症状なのが、家族の秩序の崩壊だと思う。

 家族全員が同じ教会に通うというのは、ある面、家族全員で同じ学校に通うようなものだ。父親も母親も子どもも、教会では牧師やリーダーたちの指導を受ける。
 その指導というのは教会によっていろいろだろうが、「弟子訓練」とか「スモールグループ」とかを積極的に取り入れる教会だと、案外厳しい指導をする。親が見ている前で子どもが叱られたり、逆に子どもの前で親が叱られたりもしてしまう。

 これは一歩間違うと大変なことになる。
 子どもからすると、両親より牧師の方が偉かったり影響力があったりするから、そのうち親の言うことを聞かなくなるかもしれない。
 逆に親の方は、自分より牧師の方が子どものことをよくわかっている、と錯覚してしまい、子どもに対して何も言えなくなってしまうかもしれない。

 家族よりも、牧師とかリーダーとかの方が重要になってしまう。そうなると、その人の家庭生活というのは、すなわち教会生活なのだ

 これは極端な例だろうと思われるかもしれない。が、実際に起こっていることだ。私の教会もそうだった。それにどんなに健全な教会であっても、同様の傾向というか構造みたいなものは、存在するだろう。

 私が思うに、その原因は二つある。

 一つは、牧師(リーダー)に最高の権威を与えてしまっているからだ。
 牧師が最も神に近い存在であり、神の代弁者であり、その言行はいつも正しい、としてしまうと、それに異を唱える全ての存在が不信仰とみなされてしまう。

 もう一つは、信徒の聖書知識とそれに基づく判断力が欠如しているからだ。
 例えば、現代は新約聖書の時代であり、全てのクリスチャンが祭司であるということを知らない(あるいは信じられない)。神は牧師だけに特別に語られる、自分には語られない、と信じてしまっている。
 それにその「語られる」にしても、肉声が聞こえるとか、夢で語られるとか、そういう劇的な啓示だと信じてしまっている。もちろんそれもあり得るが、すでに聖書という「神の声」を持っていることに気づいていない

 もちろん、この信徒側の問題は、牧師が意図的に操作してのことかもしれない。すなわち「牧師にこそ神の最高の権威が与えられているから、私に聞けば間違いない」というメッセージを明に暗に送り続けることで、信徒の判断力を奪っているかもしれない。

 いずれにせよクリスチャンホームは、そうであることに安住してはいけない。特に両親はしっかりと聖書を理解しているべきだし、いつも吟味する姿勢を持っているべきだ。そして、子どもを指導する最終的かつ最高の責任は、牧師でなく自分にあるということを忘れてはならない
 その子は牧師の子でなく、まして教会の子でもなく、あくまで自分の子なのだから。

追記)
 つまり子どもの教育の責任は親にあるという話で、ごく当たり前なことである。もし健全な教会の方がこれを読まれたら、「何を言ってるんだ。当然じゃないか」と思われるかもしれない。

 そういう方には、この記事は必要ないだろう。そしてそれは良いことだと思う。

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