高校フットボール部のコーチの挫折と成功を描いた作品だ。以前紹介した "Fire proof" と同じ映画会社(教会?)のもので、やはりクリスチャンの信仰がテーマとなっている。
簡単にあらすじ。フットボール部コーチのグラントは、何年たっても結果を出せず、いよいよ解雇されようとしている。良い選手は他校に移ってしまい、アシスタントにも裏切られる。おまけに自分の不妊症のせいで妻は妊娠できず、家も車もボロボロ。行き詰まって夫婦で泣いて夜を過ごすのだが、そこで聖書の神に出会う(おそらく元々クリスチャンだが、さほど真剣ではなかったようだ)。
すると全てが一変する。選手たちも信仰に目覚め、チームは勝ち始める。新しい車を与えられ、昇給し、妻の妊娠もわかる。最終的に地区大会優勝という快挙を成し遂げ、ハッピーエンド。
単純に感動できる物語で、私は大好きだ。特に最後のキッカーを務めるデビッド(巨人ゴリアテに立ち向かうダビデから来ていると思われる)のお父さんには泣かせられる。車椅子から必死で立ち上がり、息子をじっと見守る姿は何度見てもグッときてしまう。
それはそれでいいのだが、この映画で一つ気になるのは、「クリスチャンとして信仰に歩めば幸せになれる」というメッセージが強調されている点だ。
それは基本的に間違っていないと思うけれど、この映画みたいに信仰があれば全ての苦難を乗り越え、望むものは得ることができると信じてしまうのは、「繁栄の神学」につながって危険だと思う。
また聖書の講釈みたいになってしまうが、確かにヨブ記のヨブは全てを失って苦しんだ後、神の祝福を受けて失ったものの倍を得るし、「主を認めるなら何をしても栄える」とも書いてある。が一方で、「(クリスチャンは)キリストの苦難にも預かっている」とも書いてある。パウロは生涯解決できない問題を負っていた。黙示録にはおびただしい数の殉教者が登場するし、その数はまだ足りていないとも書いてある。
新約聖書のステパノも、一般的に言うところの「幸福」は得られなかったのではないかと思う。彼は初代教会で活躍した一人だけれど、その活躍というのは教会内のモメ事に対処する「汚れ役」としてだったし、最後は石打ちにされて死ななければならなかった。
繁栄を願う人たちには、絶対に歩みたくない道だろう。
もちろん繁栄することは悪いことではない。私だって繁栄したいし、家族や知人が幸いな人生を送ってくれることを願っている。誰だってそうだろう。
が、聖書はクリスチャンの繁栄を保証している訳ではない。
あるいはその繁栄というのは、私たちが普通に想像するものとは違っているかもしれない。金銭や所有物ばかりが繁栄の証とは限らないと思う。
何かに欠乏し、何かを忍耐し、何かを期待するのは人生に付き物だ。それらが全て満たされることが「繁栄」なのだとしたら、私たちは生涯繁栄できないような気がする。
それに全て満たされてしまったら、いったい誰が神様を必要とするだろうか?
追記)
念のため書いておくが、 "Facing the Giants" そのものは素晴らしい映画であり、「繁栄の神学」とは何の関係もない。制作者たちの信仰がどんなだかは知らないが。
追記)
念のため書いておくが、 "Facing the Giants" そのものは素晴らしい映画であり、「繁栄の神学」とは何の関係もない。制作者たちの信仰がどんなだかは知らないが。
祈れば現世的な望みが全て解決!なんて嫌ですよね。
返信削除困難な状況でも前向きに希望を捨てずに生きていけることが信仰の最大の恵みなのでは?
結果重視の祈りって卑しい印象を受ける。
苦難のなかを耐え忍ぶ力こそが最大の恵みであり、
そこを飛ばして、解決した!ハレルヤ!を強調すると、
なんだか風水や幸運を招く長財布の宣伝みたいで下品。
下品なキリスト教って最悪。
匿名様
返信削除コメントありがとうございました。
仰る通りです。