クリスチャンと繁栄

2013年7月3日水曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
 私の好きな映画の一つに "Facing the Giants" というのがある。
 高校フットボール部のコーチの挫折と成功を描いた作品だ。以前紹介した "Fire proof" と同じ映画会社(教会?)のもので、やはりクリスチャンの信仰がテーマとなっている。
■ジャケット画像

 簡単にあらすじ。フットボール部コーチのグラントは、何年たっても結果を出せず、いよいよ解雇されようとしている。良い選手は他校に移ってしまい、アシスタントにも裏切られる。おまけに自分の不妊症のせいで妻は妊娠できず、家も車もボロボロ。行き詰まって夫婦で泣いて夜を過ごすのだが、そこで聖書の神に出会う(おそらく元々クリスチャンだが、さほど真剣ではなかったようだ)。
 すると全てが一変する。選手たちも信仰に目覚め、チームは勝ち始める。新しい車を与えられ、昇給し、妻の妊娠もわかる。最終的に地区大会優勝という快挙を成し遂げ、ハッピーエンド。

 単純に感動できる物語で、私は大好きだ。特に最後のキッカーを務めるデビッド(巨人ゴリアテに立ち向かうダビデから来ていると思われる)のお父さんには泣かせられる。車椅子から必死で立ち上がり、息子をじっと見守る姿は何度見てもグッときてしまう。
■デビッドのお父さん

 それはそれでいいのだが、この映画で一つ気になるのは、「クリスチャンとして信仰に歩めば幸せになれる」というメッセージが強調されている点だ。

 それは基本的に間違っていないと思うけれど、この映画みたいに信仰があれば全ての苦難を乗り越え、望むものは得ることができると信じてしまうのは、「繁栄の神学」につながって危険だと思う。

 また聖書の講釈みたいになってしまうが、確かにヨブ記のヨブは全てを失って苦しんだ後、神の祝福を受けて失ったものの倍を得るし、「主を認めるなら何をしても栄える」とも書いてある。が一方で、「(クリスチャンは)キリストの苦難にも預かっている」とも書いてある。パウロは生涯解決できない問題を負っていた。黙示録にはおびただしい数の殉教者が登場するし、その数はまだ足りていないとも書いてある。

 新約聖書のステパノも、一般的に言うところの「幸福」は得られなかったのではないかと思う。彼は初代教会で活躍した一人だけれど、その活躍というのは教会内のモメ事に対処する「汚れ役」としてだったし、最後は石打ちにされて死ななければならなかった。
 繁栄を願う人たちには、絶対に歩みたくない道だろう。

 もちろん繁栄することは悪いことではない。私だって繁栄したいし、家族や知人が幸いな人生を送ってくれることを願っている。誰だってそうだろう。
 が、聖書はクリスチャンの繁栄を保証している訳ではない
 あるいはその繁栄というのは、私たちが普通に想像するものとは違っているかもしれない。金銭や所有物ばかりが繁栄の証とは限らないと思う。

 何かに欠乏し、何かを忍耐し、何かを期待するのは人生に付き物だ。それらが全て満たされることが「繁栄」なのだとしたら、私たちは生涯繁栄できないような気がする。
 
 それに全て満たされてしまったら、いったい誰が神様を必要とするだろうか?

追記)
 念のため書いておくが、 "Facing the Giants" そのものは素晴らしい映画であり、「繁栄の神学」とは何の関係もない。制作者たちの信仰がどんなだかは知らないが。

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