「用いられる」ことに対する態度は

2013年7月27日土曜日

キリスト教信仰

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 キリスト教用語に「用いられる」(モチイラレル)というのがある。
 クリスチャンが、神様が願っていると思われる仕事をする時、「神によって用いられる」と言ったりする。わかりやすく言うなら「神に使われる」ということだろうか。

 要は何かの奉仕をすることであろう。
 そして奉仕というと、おそらく無数の種類があるだろう。教会の掃除とか、トラクト配りとか、礼拝での奏楽とか。他にも教会内のものと、対外的なものとがたくさんある。

「奉仕に優劣はない」というのはよく言われることだ。教会のトイレ掃除も、礼拝で賛美をリードすることも、大勢のクリスチャンが集まる「聖会」でメッセージすることも、神様が自分に願っていることに従って行うという意味では、価値は同じである。

 と、いうことは頭ではわかるし、異論をはさむ人もそうはいないだろう。
 が、実際には、奉仕の優劣というのは誰の心の中にも歴然と存在していると思う。

 最近、知り合いのクリスチャンが、一般の介護施設でゴスペルコンサートを開くことになった。純粋なその人は「神様が道を開いてくれた」とSNSに大喜びで書き込んでいて、私も微笑ましく思っていた。が、それを見たある人たちが、「僕も今度CDを出すことになりました」とか「私も以前○○で歌いました」とか書き込んだ。何のためにそんなことを書くのだろうか。奉仕自慢以外の理由が、私には思いつかない

 これは奉仕の優劣と、それを気にする人間心理との証明である気がする。もしそうでないなら、「僕は教会のトイレを掃除することになりました。ハレルヤ!」とか書き込んでもいいだろう。

 もちろん、人前でする奉仕は緊張するだろうし、準備が必要だろうから、掃除などとは取り組む姿勢が違ってくるのは当然だ。が、それは自分に任せられた責任として全うするだけだ。それをいちいち「自分はこんなに用いられている」とひけらかすのは、クリスチャンの品性として疑問だ。少なくとも、大勢に影響を与える奉仕をするにふさわしい品性とは思えない。

「大きく用いられる」ことを喜ぶ気持ちもわかるし、他の奉仕とはモチベーションが違うのもよくわかる。それは人間の本性みたいなものだから仕方ないし、否定する必要もない。が、それを自慢げに語るのは、未成熟さを露見することだ。
 聖書がしもべについて、「『すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」(ルカ17章10節)と言っていることについてよく考え、自分の奉仕に誠実に取り組むべきだろう。

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