信仰は人を破滅させるのか?

2013年7月26日金曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
 ある聖霊派教会の牧師や信徒の話には耳を疑うものが多い。
 最近で言うと「いのちの書から名前が消されることがある」とか「神学校で3年間学ぶより、地獄を3日見てきたほうがいい」とかだ。

 その中で比較的まともに見えたのが、「『わたしは真実な心で祈り続ける者を求めている』と主が言われた」という話だ。主は私たちの祈りを聞いておられが、忍耐をもって祈り続けるかどうかを見ておられる、だから諦めないで信じ続けよう、ということらしい。

 正論に聞こえる。けれど、これは一歩間違うと大変なことになり得る。

 例えば経済的危機に陥った時、普通なら具体的な解決策を考える。働くとか、切り詰めるとか、売れるものを売るとか、知人から借りるとか、いろいろあるだろう。いずれにせよ、ちゃんと解決できる道筋というか、計画というか、そういうものを必死で考える。
 が、上記の「忍耐の信仰」を実行するならば、その経済的危機も「主が忍耐を試すために用意された試練」ということになってしまう。この試練の中で忍耐して祈り続け、待ち続けるならば、主が解決して下さる、という訳だ。そして、それに同意できず、現実的な解決に乗り出すのは不信仰だという話になってしまう。

 その結果はどうなるだろうか。何も起こらなくて自己破産に陥る、というのならまだましだと私は思う。自分が損をするだけで済むからだ。
 しかしもし、その人の家族とか親族とかが裕福で、その窮状を知って、寛容にもお金を出してくれたとしたら、どうなるだろうか。その人はそのお金を「神の助けだ! 忍耐の結果だ!」と信じるのではないだろうか。そして礼拝の証の席とかで、涙ながらにその「奇跡」について話すのではないだろうか。そしてそれを聞いた人々は、同じような無謀な信仰に陥っていくのではないだろうか。

 確かに、忍耐が試されることはある。聖書もそれを支持している。時に絶体絶命の危機にある者をギリギリで神様が救われる、という例もある。が、そういうギリギリ状態で助けられることが信仰の勝利だと思い込み、初めからできもしない(見込みのない)事柄に無謀に飛び込むのは、信仰というより狂信だろうと私は思う。
 その教会の全てがおかしいとは思わない。けれど、そうやって人を破滅に陥れようとする信仰の在り方には、全く同意できない。

 彼らからしたら、私は不信仰でサタンに縛られた者ということになるかもしれない。それはそれでいいのだが、人を破滅させる信仰の在り方が本当に神からのものかどうか、よく吟味してからにしてほしいと思う。

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