「ソウルサーファー」の感想。扱いづらいキリスト教信仰。

2013年7月24日水曜日

キリスト教信仰 映画評

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 2011年公開の「ソウルサーファー」は、キリスト教界では有名な一本だと思う。
 ハワイのサーファー少女、ベサニー・ハミルトンの挫折と再起を描いたノンフィクション映画だ。ポイントはハミルトン家全員がクリスチャン、かつホームスクーラーという点だ。

 ベサニーは練習中にサメに左腕を食いちぎられるが、一命をとりとめ、家族の支えもあってサーファーとして再起する。映画はその過程を描いていて、彼女のひたむきな努力と家族の献身的な愛にフォーカスが置かれている。単純に感動できる映画で、私も大好きだ。

 日本のホームスクールを支援する団体は昨年、この映画を大々的に取り上げた。代々木でのセミナーにベサニーの兄(本人)を招いたり、DVDの注文を集めたり、各地で無料上映会を行ったりなどした。なにしろホームスクーリングをするクリスチャンの少女が主人公で、しかも大きな困難を乗り越えて成功する物語なのだから、利用しない手はないのだろう。
 キリスト教書店にも、書籍やDVDが置かれている。クリスチャンの若者が見るべき一本、みたいに扱われている。

 確かにクリスチャンにとって励ましになるだろうが、私は違和感を持った。

 映画の最後、べサニーの語りで、「神様がいればどんな試練も乗り越えられる」と言っているが、本編を見る限り、そう告白できるようなストーリー展開ではない。べサニーの父が繰り返し言う、「自分を信じろ」「お前ならできる」「第六感で波を感じろ」などの若干精神論的な指導に重きが置かれていて、どのような神の助けがあったか明確でない。
 それにべサニーの最後の波乗りは、ハワイの自然崇拝的な演出がされているように見える。

「神様」という言葉は何度か出てくるし、教会での礼拝のシーンもある。が、どれも取ってつけたように見える。キリスト教信仰を前面に押し出しているようでいて、実はそうではないような気がした。

 メイキング映像を見て、その原因がわかったような気がした。

 監督だったと思うが、「ハミルトン家の信仰は尊重したかった」というような表現をしていた。だから彼らの教会生活も描いたのだろう。おそらくハミルトン家から信仰の描き方についていろいろ言われて、その扱いに困ったのではないかと私は想像した。
 実際、礼拝のシーンは、本物のべサニーに難癖をつけられて何度も撮り直したと言っている。

 これは、ノンクリスチャンの制作サイドが、クリスチャンの信仰を題材にしたために起こった問題だと思う。 
 両者の温度差というか、理解の差が大きすぎて、歩み寄るのにストレスがかかったのではないだろうか。だから「神様がいるから大丈夫」という表現が時々出てくるが、大筋として「自分の才能を信じろ」というメッセージを感じるのだと思う。

 映画としては素晴らしいのだが、「ホームスクーラーの信仰を励ます良い映画だ」と評するのはどうかと思う。これを観て「神様ってすごい」と思う人はそういないだろう。それよりは、「諦めないことの大切さ」とか「家族の愛」とかに感動するのだと思う。
 それはそれで大切なことだが。

追記)
 何度も書くが、「ソウルサーファー」自体は良い映画である。クリスチャンのみならず若者にはお勧めする。

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