クリスチャンの「戦い」の2つの勘違い

2013年7月22日月曜日

キリスト教信仰

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 聖霊派だけかどうかわからないが、「霊的戦い」を強調する教会がある。クリスチャン生活とは戦いだ、と彼らは言う。

 それは基本的に間違っておらず、第一ペテロ5章8節と9節は「敵である悪魔が獲物を探し回っているから立ち向かいなさい」と表現しているし、エペソ16章33節は「戦いは血肉の戦い(肉弾戦)でなく、悪霊に対するものだ」と言っている。
 イエス・キリストご自身、ヨハネ16章33節で「わたしはもう勝っているから勇気を出しなさい」と言っている。

 だから悪霊との戦いは実在するし、そういう意味で「日々戦い」なのは間違いない。

 が、その「戦い」を勘違いしているのではないか、と気になることが2つある。

 まず、「霊的戦い」を強調する教会だが、具体的にどう戦うかという話になると、「祈るしかない」となる。それはそうだろう。
 が、それで彼らは、楽器の音を大きくしたり、激しい旋律を弾いたり、声を大きくしたり、拳を振り上げたり、悪霊に対して怒鳴ったりする。「血肉の戦いじゃないよ」と聖書が教えているのに、わざわざ血肉の戦いに持っていこうとしているように思える。見ていて滑稽だ(以前は私もその渦中にいたのだが)。
 とにかくそんなふうに騒いだ後、感情的にも落ち着くと、「よし、悪霊を打ち破った」と一件落着する。
 が、何日かすると、また同じような戦いの祈り(?)をしている。あれ、この前勝ったんじゃなかったっけ?
 まるでアンパンマンとバイキンマンの戦いみたいだ。

 もう一つは、外部の人や団体を「悪霊にコントロールされている」と決めつけてかかることだ。

 聖書には、御心を知らなかったペテロがイエス・キリストに余計なことを言ったがために「下がれ、サタン」と叱られる場面がある(マルコ8章33節)。この、弟子でも悪霊に利用されるという点を利用して、自分たちに敵対する人や団体を「悪魔認定」してしまうのだ。

 これは非常に危険だ。
 この考え方に染まったクリスチャンは、友人だろうと家族だろうと、自分の意に反することを言おうものなら「悪魔だ」と敵対して関係を絶ちかねない。どんな正論もアドバイスも受け付けなくなってしまっているし、自分(たち)が絶対正しいと思い込んでしまっている。

 が、彼らは戦うべきところと内省すべきところを混同しているだけだ。

 これもやはり、「血肉の戦いでない」ものを血肉レベルに引きずり落としているように思える。

 何事も行き過ぎは良くない。時々立ち止まって、落ち着いて考える時間を持つべきだと思う。

 まっすぐ歩いているつもりでも、振り返ると大きくカーブしていることがある。正しいと思っていたことが、いつの間にかそうでなくなっていることもある。

 そうなる前に気づけば幸いだ。
 あるいはどんなに曲がってしまっても、それに気づいて修正できるなら、やはり幸いだ。

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