「この世」を見下すクリスチャンたちの痛々しさ

2013年7月21日日曜日

キリスト教信仰

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 聖霊派クリスチャンの専門用語という程ではないが、「この世」という表現がある。
 一般社会を指す言葉だ。「この世の悪影響を避ける」などと使われる。一般社会と自分たち(教会?)を区別するのが目的だ。

 確かに聖書には「この世には戦いがある」とか「この世と調子を合わせてはいけない」とか書いてあるが、それらは何かを区別するためには使われていない。

 
 聖霊派のそれには、明らかに蔑視が含まれていると思う。一般社会とそこに住む未信者たちは自分たちより下等で、無知で、救ってあげなければならない存在なのだ、という差別意識を感じる。ホームスクーリング推進派には、「この世に子どもを出したら汚されてしまう」と本気で信じている人たちまでいる。

 そういう人たちにとって、子どもの大学進学とか就職とかは耐え難いイニシエーションだろう。大切に育ててきた我が子が「この世」に汚される時がきたからだ。それを避けようと、通信制大学を選ばせたり、自営業を手伝わせたりと、あくまで子どもを「この世」に出させないようにする動きもある。何とも気持ち悪い、と私は思ってしまう。

 私に言わせると「何様ですか」だ。
 クリスチャンだから、教会員だから、神の御心を知っているから、何か特別な存在になったと感じているのだろうか。それはある意味正しいが、神の愛は全ての人に等しく向けられているはずだ。そして私たちクリスチャンは、ただ未信者より先に罪を許されただけであって、罪人であることに変わりはないはずだ。犯罪者が、赦免されてもその前科は消せないように。

 それに、清く正しく生きていると断言できるクリスチャンが、いったいどれだけいるだろうか。たとえその行いとか表面とかが清く正しく見えたとしても、その内面はどうだろうか。汚いものがないだろうか。私にはあるのだが。

 そういうのをごまかして、私は清い、この世は汚れている、などとよく言えたものだと思う。そういう人たちだって「この世」に生きているのだし、その恩恵にも預かっているはずだ。区別したり差別したりできる立場ではないだろう。

 もちろん、人が何と言うかは勝手だ。世間一般を「この世」と見下げ、優越感に浸るのも自由だ。
 が、教会とその関係だけの狭い世界に閉じこもり、悟り顔で「この世」を見下ろしているクリスチャンたち程、見ていて痛々しいものはない

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