そこでわかったのは、立場次第で聖書解釈も変わるということだ。
第二ペテロ1章20節は「自分勝手に解釈すべきでない」と言っているが、どれが正しい解釈でどれが自分勝手な解釈なのかは、大きな論議を呼ぶと思う。おそらくすべての教会や牧師が、自分の解釈が正しいと思っているはずだからだ。
どれが正しくてどれが間違っているとはここでは言わない。私にもよくわからない。が、前回書いたように、安易な肯定も否定もすべきでないと私は思っている。
それが「どっちつかずな信仰」と言われればそうかもしれないが。
それはそうと、聖書解釈について気になることが二つある。
一つは、都合のいい解釈だ。
聖書が「愛し合いなさい」とか「俗悪な無駄話を避けなさい」とか言うのは「その通り」と肯定するが、例えば「預言することを熱心に求めなさい」と言うのは「いや、預言はもうすたれているから」と理由をつけて否定する。どの命令に従うかは自分次第、という訳だ。
聖書を「神の完全な啓示」と主張する割に、その命令を選り好みするというのは、二枚舌と言うのではないだろうか。
もう一つは、教会や教団や牧師の解釈を鵜呑みにしてしまうことだ。
いろいろな教会やクリスチャンを見てきたけれど、例えば礼拝のメッセージを聞いた後、そのメッセンジャーに質問しに行く人はほとんど見たことがない。行っても肯定的な感想を言いに行くとか、悩み相談に行くとかだ。
もちろん毎回毎回質問がある訳ではないだろう。が、もし一度もそういう質問をしたことがなかったり、聖書を詳しく調べたことがなかったりするなら、そういう人の聖書理解というのは、教会や教団や牧師のそれのコピーでしかないだろう。
気になることは自分で聖書で調べ、複数の箇所を確認し、必要ならいろいろな人の意見を聞いたり信仰書を開いたりすべきだと私は思う。時間をかけて納得いくまで調べ上げ、自分で確信して初めて、「自分の信仰」と言えるような気がする。
使徒行伝17章11節は、ベレヤに住むユダヤ人たちが素直な人たちで、「果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた」と評している。
教会奉仕も大事だけれど、皆で聖書を開いてああだこうだと話し合うのもいいものだと思う。それはバイブルスタディに参加して受動的に話を聞くことでなく、自ら積極的に参加し、調べ、考え抜き、発言することだろう。
こんにちは。いつもマメに更新、ありがとうございます。
返信削除牧師の言った事だからと、鵜呑みにするのではなく、自分で納得するよう、自分で聖書を調べる。これは、ものすごく大切な事だと思います。牧師は神学校で聖書を学んでいるのだから、、、とか、神様が立てた器だから、そのまま信じる、とかいうのは、違うと思いますね。理解できなくても、従うのが信仰、という風潮が特に聖霊派と呼ばれる流れにはあると思いますが、それがカルト化する温床となっているのだと思います。もちろん、人間に過ぎないものにすべてが理解できるわけではないのも事実です。聖書にも、まだわからない(封印されている?)ところが少なからずあります。三位一体の教理は、人間の頭では理解不能で、そのまま信じ、受け入れるだけです。しかし、そういう事柄はごく限られています。理解できずとも信じ、従う例が聖書にもあるからと言って、盲信を神様が喜ばれるとも思えません。人間は、神様のような全知でも天使のような知識もないけれども、さりとて何も弁えない動物でもないのです。人間は人間です。人間である以上、まったく考えないという事はできません。神様は人間を神の形に作られ、理解する能力、考える能力を与えられたのですから、理解し、自分で考えて行動するという事は、人間という存在の本質です。納得してない事を、心からすることはできないのではないでしょうか。理解して納得してこそ、心からそのわざをなすことができるのだし、それこそが、神さまへの自発的な(=心からの)霊的な捧げものとなるのでしょう。