異言の是非(2)

2013年7月17日水曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
 異言についてさらに書きたい(前回の記事はこちらから)。

 前回、聖霊派が主張する「ダダダダ」等の擬音語的異言は、聖書に照らし合わせるなら異言とは呼べないのではないか、と書いた。

 今回は、反対に「今日の異言」を完全否定する立場(主に福音派だと思われる)の主張について書く。

 彼らが異言を否定する根拠は、主に第一コリント13章にあるようだ。章全体を要約すると、

1)愛がないならどんなものも無駄だ。
2)愛とは何ぞや。
3)愛は永遠だが、預言、異言、知識はすたれる。
4)愛は完全だが、預言、異言、知識は不完全で部分的だ。
5)現在、私たちは部分的にしか見られない(知られない)が、その時には、完全に見る(知る)ようになる。
6)永遠なのは信仰、希望、愛だ。

 となる。
 それで、完全なもの(聖書らしい)が現れた今、不完全なものはすたれた、と主張している。すたれたはずの異言が、今日存在しているはずがない、という訳だ。

 が、どうも納得できない点がいくつかある。

 まず、「その時」を「聖書が完成した時」とする根拠がどこにあるのだろうか。文脈的には、ここでいう「完全なもの」は聖書でなく「愛」を指しているはずだ。
 次に、異言がすたれたなら知識もすたれているはずだ。となると、私たちが今持っている聖書的、あるいは一般的知識とはいったい何なのだろうか。
 また、「その時」以降、私たちは「完全に知るようになる」はずだが、私たちは今、完全に知っているのだろうか。とてもそうは思えないが。

 それに、新約聖書のペテロやパウロや、その他の無名の人々は、明らかに異言を語っていたはずだ。それから数世紀後の聖書が編纂された時代、異言を語る人間が一人もいなかったとは言い切れないだろう。するとその人物が異言を語っていたところ、あるタイミングで聖書が完成して、以降、急に異言を語れなくなった、ということになる。それも何だか釈然としない。

 それに第一コリント14章で、パウロは預言や異言を語る時の注意点をいくつも書いている。が、すたれてなくなるものについて、なぜわざわざ書く必要があったのだろうか。
 編纂された時点で必要なくなると神が計画されていたなら、わざわざ預言や異言について書かせなかったのではないだろうか。なぜなら聖書は「完全なる神の啓示」なのだから。

 まだある。同じ第一コリントの14章は、「預言することを熱心に求めなさい」と言っているし、「異言を語ることを妨げてはならない」とも言っている。
 その預言や異言がすたれたなら、誰も求められないし、語れない。つまりその指示は誰に対してのものでもない、ということになる。だったらなぜ書いたのだろうか?
 その指示がもたらすのは益でなく、混乱ではないだろうか。

 そういう混乱を神が願っているとは、私にはとうてい考えられない。なぜなら神は「すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよい」(第一コリント14章40節)と言う方だからだ。

 だから聖霊派の擬音語的(自称)異言は大いに疑問だが、福音派の完全否定も同じくらい疑問だ

 預言も異言も、異言の解き明かしも、癒しも、今日もあり得ると私は考えている。もちろんそれらが神からのものかどうか、十分に吟味する必要があるし、その結果、神のみが栄光を受けるものでなければならない。

 すべてのものを適切に、秩序をもって行うため、私たちには健全なバランスが必要だ。安易な肯定も完全否定も良くない。十分に検討してからでないと、何かを断じてはいけないと思う。

 結論。私は異言を強調しないけれど、否定もしない。今日でも聖霊に満たされた人が、神の意志によって異言を語らせていただく、ということは起こり得る。

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