これは教派によって意見が真っ二つに別れる、非常にデリケートなテーマだと思う。私もずっと書くのを避けてきた。が、とりあえず自分の中で整理がついたので書いてみる。
新約聖書の使徒行伝2章には、「聖霊に満たされた」クリスチャンたちが、突然いろいろな国の言語で話し出した、という記述がある。それらの言語は彼ら自身も知らず、しゃべったこともないものだった。が、ちゃんと意味が通るように正しく話していて、その内容は神の大きな働きについてだった、と書いてある。
これが聖書の言う「異言」だ。否定するクリスチャンはいないと思う。聖書に書いてある現象だからだ。聖典を否定してしまったら元も子もない。
が、問題は、この異言が現在もクリスチャンによって語られるか否かにある。私が知る限り、福音派は否定、聖霊派は肯定という立場だ。それぞれ聖書から根拠を出していて、議論になると永遠の平行線を辿ることになる。クリスチャンとノンクリスチャンの結婚の話題に通づるものがある。
私の母教会では、ほとんどのメンバーが「異言」をバリバリ話していた。私自身もそうだった。
が、その異言というのは、「ダダダダ」とか「バラバラ」とか、とても外国語とは呼べないものだった。どちらかと言うと「ジョジョの奇妙な冒険」の登場人物たちが言いそうな擬音語みたいなものだ。およそ構造的・文法的なものではない。
聖書が言う異言とはまったく違う。なぜその擬音語を異言と信じたかというと、牧師がそう言ったからだ。
「異言は、話しているうちに発達していくものだから、はじめは単純な言葉の繰り返しでいいんだよ。ほら、赤ちゃんもそうでしょう。自分の腹から湧き上がってくる言葉を、何でもいいからとにかく発音してみなさい」というようなことを言っていた。
それを真に受けた私もバカだが、そういう戯言をしれっと言い切った牧師の頭の中を見てみたい。いたって真剣だったのか、それとも人をバカにしていたのか。
そんなこと、聖書のどこにも書いていない。異言とは「知らない言語を完璧に話す」もののはずだ。
さらに悪いことに、Mは異言について、「あらゆる霊的賜物の土台だ」という新解釈を施していた。「バラバラ」とか「ボラボラ」とかいう擬音語を長時間言っていれば、聖霊に満たされて、預言ができたり癒しができたりと、いわゆる「力あるわざ」を行うことができるようになる、という。
もはや怪しげな新興宗教みたいだ。
ボロクソに書いてしまったが、こういうことは今だから冷静に言えることだ。その中に実際にいた時は、そんなこと考えもしなかった。
牧師や先輩たちが肯定し、誰もがそれを求めている。そんな中で「腹から湧き上がってくるものがあるでしょう。口を自由にして、言葉にしてみなさい」とずっと言われ続けていれば、それは「あ」とか「う」とか出てくるだろう。それを繰り返しているうちに、周りの皆が言っているような「異言」らしくなってきて、「やった。これが異言だ」と思ってしまう。
そう思わない以上、そのコミュニティにはいられないのだ。少なくとも劣等感や疎外感に耐えなければならなくなる。
そういう集団心理は時として、聖書が言っている単純なことや、いたって常識的なことを、見えなくさせる力を持つ。「それはおかしいだろう」と言えるのは、外から傍観しているからに他ならない。
私は今日の異言を完全否定する立場ではない。が、私たちベンテコステ派が信じる擬音語的な「異言」については、十分な再考が必要だろうと思っている。
少なくとも私自身が語ってきた「異言」は、聖書が言う異言ではなかったと思っている。