そのダンスはショーか礼拝か

2013年6月4日火曜日

キリスト教問題

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 昨今の福音派の教会の多くが、いわゆる「ワーシップダンス」を取り入れている。ヒップホップやフラなど種類はいろいろあるだろうが、要は踊りをもって神様を礼拝することである。
 礼拝のプログラムの一部として、ダンスチームがダンスを披露する教会もある。

 聖書は「踊りをもって、御名を賛美せよ。」(詩篇149:3)と言っていて、踊りが礼拝の一つであることを支持している。
 確かに、神様に感謝したくてたまらない時など、踊り出したくなる人はいると思う。アフリカ出身のクリスチャンで、常に何かのリズムをとっているような人もいる。

 私の母教会でも、礼拝の中で中高生らが練習したてのダンスを披露することがよくあった。
 元牧師のMは、そういうダンスを見ながら軽く手を上げて「ハレルヤ」とか言ったり、今にも泣き出しそうな顔をしたりと、まるでダンスを見ながら神様の「臨在」をビンビン感じていて、礼拝せずにいられない、自分にとってはダンスを見るのも礼拝だ、と主張したいようであった。その一方で私は、「練習頑張ったんだろうな。あとで褒めてあげよう」くらいにしか思っていなかった。だからMのそういう様子を見て、違和感を持ったのをよく覚えている。
 そもそも、教会に来たばかりの頃は、礼拝中にダンスを見せられる理由がいまひとつわからず、かと言ってその疑問を誰にぶつけるべきかもわからず、消化不良のまま過ごしてしまっていた。

 ダンスは間違いなく礼拝方法の一つであるけれど、何でもかんでもそうという訳ではない。
「聖書とダンス」というテーマを長年研究した Doug Adams という学者がいて、礼拝とダンスの関係について、一つの明確な定義をしている。それによると、聖書が示す礼拝としてのダンスというのは、コミュニティ全体としてのダンスだそうだ。つまり、そのコミュニティの全員が踊りをもって一体的な礼拝を捧げるのであって、傍観者はいない、ということだ。
 賛美礼拝の時、そこにいる全員が歌うのと同じ理屈である。
 誰かが歌って、それを全員で聴く、というのは賛美礼拝というよりコンサートである。
 ダンスにも同じことが言えるのではないか。
 例えばある集団が、神様を喜んで全員で踊り出す。そこには民族的、習慣的に形作られた踊りの形態があっただろうが、特別な練習とかオーディションとかが必要だったのでなく、とにかく踊ることでこの喜びを神様に伝えよう、というコミュニティとしての明確な礼拝観があったはずだ。何らかの事情がない限り、傍観するということはなかっただろう。

 この定義を読んで、私が感じた違和感の本体がわかったような気がした。

 舞台などで人に披露するものは、歌であれ踊りであれ、「ショー」なのだ。
 聖書をモチーフにした劇やミュージカルやいろいろな芸術を鑑賞して、「ああ神様って素晴らしい」と感じたり、何かのインスピレーションを得たりするのは、広義には個人的礼拝と言えると思う。が、そのショータイムを教会の礼拝と位置付けるのは、いささか聖書的でない気がする
 もちろんそのダンサーが礼拝の心で踊るのは素晴らしいことだし、観客が礼拝の心で観るのも良いことだ。けれど、それを教会全体の礼拝とするのは乱暴な話だ。

 あるいは、礼拝中にショータイムを持つことをその教会の文化とするなら、それはそれで自由だと思う。が、その場合であっても礼拝とショーはある程度、分けるべきだ。
 でないと新来者や新しい信徒は、何が礼拝なのかわからなくなってしまう。

 礼拝に参加すると、初めの賛美礼拝の後、特別賛美やらダンスやら映像やらを延々と見せる教会がある。一つのショーが終わる度に、拍手が起こる。
 拍手をした人たちは、礼拝に来たのだろうか、ショーを観に来たのだろうか。
 一度礼拝について、よくよく考えてみたらどうかと私は思う。

結論) 礼拝として皆で踊るダンスと、ショーとして踊るダンスをゴッチャにしてはいけない。

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