先日、その手のライブの録画映像を、少し見た。
クリスチャンが集まるライブというのは、一般のものとは少し勝手が違う。基本的に、聴衆も一緒になって歌うのだ。一般のライブでも聴衆が歌う場面はあるけれど、クリスチャンのものは基本的なスタイルが「一緒に歌う」なのである。
その意味で、礼拝とほとんど変わらないかもしれない(※もちろん、聴衆に聴かせるだけのコンサートもある。そういうのは聴衆に歌わせない)。
私が見たその映像は、比較的若い日本人男性が、ギターを弾きながら賛美を歌い、聴衆に語りかけるものだった。会場はどこかわからないが、小さくはない。聴衆は若い人が多いように見えた。
そういうライブ等は好きにやったらいいと思う。神様のためだと言うなら、言葉通りにやってくれればいい。
その映像は終盤だったらしい。男が感極まった感じで、「みんな手を上げて、神様賛美しよう!」と言った。
私はそこで見るのをやめた。もともと見たかった訳ではない。遊びに行った知人の家で流れていたのだ。
手を上げて賛美するというのは、ペンテコステ派などのいわゆる聖霊派の礼拝スタイルだ。私も母教会ではそうやって賛美していた。
両手を上げるというのは、神様に全て捧げます、降伏します、無力ですという意思の表明であろう。そういう意味では、悪いものではないと思う。オーバーアクションの欧米人には文化的、習慣的なことかもしれない。それがアジアにも輸入されたのだと思われる。
礼拝は形式でなく、心が最重要だと私は信じている。だから手を上げるからどうとか、逆に上げないからどうとか、言うつもりはない。それぞれ信じた通りにしたらいいと思う。
が、リーダーが「手を上げて」と訴えるのはいただけない。
彼らは「人々が礼拝に入っていけるように促してあげているんだ」とか言うかもしれないが、単に礼拝形式を強要しているだけだ。手を上げたくない人は居づらくなってしまうし、礼拝できなくなってしまう。それに、礼拝に「入っていけるように」促してもらわなければ礼拝できないとしたら、初めから礼拝の心なんてないのだと思う。
また、それを見ている熱心なクリスチャンが将来、賛美をリードする立場になった時、同じように言ってしまうのではないだろうか。しかも、良かれと思って。
そのライブの彼は、皆が手を上げれば礼拝として盛り上がると思ったかもしれない。そうすれば神様も喜ばれる、と思ったかもしれない。
しかし盛り上がるのはライブであって、礼拝ではない。注目されるのは彼の歌であって、神様ではない。手を上げさせられた聴衆たちの心が礼拝の心でなかったら、神様は少しも喜ばれない。
それは勘違いな礼拝モドキというものだ。
神様が全然喜んでおらず、逆に「あなたたち何やってるの」と憐れんでおられるその眼前で、したり顔のクリスチャンたちが両手を上げて賛美している、としたら、これほど惨めでイタイことはないと私は思う。
ペンテコステ派の単りつから、バブテスト連盟に移って気がついた事は、とにかく礼拝の規律が多かった。礼拝の初まりはにエペソ4章の武具を付け、で、次に詩編23編、主を三呼しましょう で「主よ、主よ、主よ・・・」とか 賛美の只中で「手をあげて 受け取りましょう。今、油注ぎを受けてください。 今 ですよ。 今・・・」とか、「ハレルヤ を3呼しましょう・・・ハレルヤーハレルヤー、ハレルヤー・・」とか、必ず、礼拝後に按手を受けるだとか、メッセージの時、牧師登場 講壇へ移動の時、掲げられている十字架の前で足を止めて立ち止まり、仰ぎ見る的な。とにかく、あれして、こうしてを遠まわしに要求され、形式ばった礼拝ばかり。今思うと、なんだか儀式みたいだったよ。牧師の仕事って、羊に糧(御言葉)を与えることですよね?
返信削除食物をもらえずに 要求と奉仕ばかりを求められて、飢餓をとおりこしてひん死の状態だったよ。緑の牧場ではなかった。奴隷のくびきを負わされた思いの7年間だった。今、牧場が少しずつ心地よい。自由ってこんなに自由なんだーと今更ながら思った。 おかしいけど。
本日12/29の21:00頃に計4回、Passionというライブの映像のURL(youtube)のみが投稿されましたが、コメントがなく、意図が不明です。もちろんその動画を紹介したいのでしょうが、当該記事に対してどのような意図と目的があってそれらのURLのみを投稿されたのか、読み取ることができませんので、非承認としました。
返信削除つか、手を挙げて上を見ながらというのは、いかにも従順です私は、のようなパフォーマンスにみえて、正直好かないです。
返信削除あと、祈りの途中で、参列者が、ああ主よ、とか、アーメン、とかつぶやいているのは、マジうざいしうるさいし。
さすがに「異言」がでるというのは、なかったけど。
まあ本当にそうせずにはいられない、という方々には悪いことを書いてしまったけど、
私はわからないから、そういう気持ちは。
もちろん動機次第ということになりますよね。
返信削除ただ、私は詩篇134の御言葉を持ってその若いリーダーを擁護したいと思います。
1 さあ、主をほめたたえよ。主のすべてのしもべたち、夜ごとに主の家で仕える者たちよ。
2 聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。
3 天地を造られた主が シオンからあなたを祝福されるように。
配慮すべきことはたくさんあるでしょうが、手を上げて賛美しましょうという促しは聖書からの促しでもあるわけですし、物理的に手をあげることで、心も解放されていくという側面もあると思います。普段手をあげるなんて周りの目がきになってできない、という縛られた心が解き放たれるチャンス作りでもあると思います。
こうして警笛を鳴らしてくださる方の声を良く理解しつつ、聖書理解を深めた上で、なお「手を上げて賛美しましょう」と言える賛美リーダーになりたいものです。
(以上、詩篇134が福音派から失われてしまわないようにと願う
ペンテコステ派とは無関係のいち信徒より)
コメントありがとうございます。
削除「聖書理解を深めた上で」と仰っているので、聖書には詳しいかと思います。では旧約はさておき、新約が「聖所に向かって手を挙げろ」と命じているかどうかはご存知ですよね。また現在「聖所」がどこにあるかもご存知ですよね。もっと言うと、新約においてキリストが礼拝をどう規定されているかもご存知ですよね。
なぜか礼拝形式とか信仰生活(什一献金等)とかの話になると、新約を忘れてしまったのか、旧約の箇所ばかり引っ張ってくる人がいます。私はそれがかなり不思議なんですが。
そんなに旧約を強調されるなら(旧約が大切でないとは言っていません)、エルサレム会議において異邦人が免除されたはずの律法の規定をすべて守ることをお勧めします。とりあえず毎朝晩、鶏とか牛とか豚とかを殺して捧げることから始めたらいかがでしょう。それなら「聖所に向かって手を挙げろ」も納得できます。
とは言いつつ、礼節を持った書き方をされていて大変感銘を受けました。ありがとうございます。
ご返信ありがとうございます。
削除知ったように聖書を引いてきて大変失礼しました。
ご指摘いただいているように私は聖書に詳しいとは言えません。
神学的なことについてはさっぱりと言って良いくらいです。
信仰をもって4年とまだ短いと自分では思っています。
しかしながら、礼拝の司会や賛美リードを任されるようになり、正しく行えているのか日々葛藤しながらの奉仕です。
そしてまさに明日、超教派の小さな集会で賛美のリードをします。
「両手上げて歌う」という歌詞があり、素直に礼拝の想いで自分は手を上げて賛美すると思うのですが、聴衆に対してはどういう思いで臨めばよいか?リーダーが手を上げて歌うことの是非は?など色々考えているうちにこの記事にたどり着きました。
知らずと形式の強要にならないよう、注意することを思わされました。
また、このような者が会をリードすることの恐れ多さを再び思わされています。
みんなの信仰を導くんだ、なんて言えるわけもなく、出来るものでもなく、すべきでもないものと改めて思います。
場を支配してくださるのは聖霊であって、私はただ任された分を、身を低くし、精一杯やるのみ、とまた思いを新たにすることができました。
ありがとうございました。
「両手を上げて歌う」というのはあくまで賛美の歌詞だと思いますが、それに従ってリーダーが「両手を上げましょう」と言ったら、会衆側は手を上げざるを得なくなると思いますね。手を上げることが信仰的、みたいな同調圧力が働きますから。すると「手を上げるのも上げないのも自由」とはなりません。
削除教会に通われて4年とのことですが、それだけの期間通われて「神学的にはさっぱり」という点をもうちょっと考えるべきかと思いました。賛美リードについて葛藤するより、まずそちらが先ではないかと。神学的根拠(それが正しいとか間違っているとかあまり関係なく)がご自分の中ではっきりしていないと、何をするにも自信がないのではないかと思います。
ただ聖書を学ぶにしても、ご自分の教会の「聖書の学び」みたいな時間に出るだけでは不十分だと思います。むしろ自教会の学びだけだと神学が偏ってしまって修正不能になると思います。いろいろな書籍が出ていますから、まずはキリスト教の歴史的な部分から時間をかけて学ばれてはと思います。差し出がましいようですが。