「手を上げて」は礼拝の強要というものだ

2013年6月3日月曜日

キリスト教問題

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 プロテスタントの超教派的な賛美集会やライブが、あちこちで開かれている。大小合わせればけっこうな数であろう。有名なクリスチャンアーティストのものだと、有楽町の国際フォーラム規模になったりもする。

 先日、その手のライブの録画映像を、少し見た。

 クリスチャンが集まるライブというのは、一般のものとは少し勝手が違う。基本的に、聴衆も一緒になって歌うのだ。一般のライブでも聴衆が歌う場面はあるけれど、クリスチャンのものは基本的なスタイルが「一緒に歌う」なのである。
その意味で、礼拝とほとんど変わらないかもしれない(※もちろん、聴衆に聴かせるだけのコンサートもある。そういうのは聴衆に歌わせない)。

 私が見たその映像は、比較的若い日本人男性が、ギターを弾きながら賛美を歌い、聴衆に語りかけるものだった。会場はどこかわからないが、小さくはない。聴衆は若い人が多いように見えた。

 そういうライブ等は好きにやったらいいと思う。神様のためだと言うなら、言葉通りにやってくれればいい。

 その映像は終盤だったらしい。男が感極まった感じで、「みんな手を上げて、神様賛美しよう!」と言った。
 
 私はそこで見るのをやめた。もともと見たかった訳ではない。遊びに行った知人の家で流れていたのだ。

 手を上げて賛美するというのは、ペンテコステ派などのいわゆる聖霊派の礼拝スタイルだ。私も母教会ではそうやって賛美していた。

 両手を上げるというのは、神様に全て捧げます、降伏します、無力ですという意思の表明であろう。そういう意味では、悪いものではないと思う。オーバーアクションの欧米人には文化的、習慣的なことかもしれない。それがアジアにも輸入されたのだと思われる。

 礼拝は形式でなく、心が最重要だと私は信じている。だから手を上げるからどうとか、逆に上げないからどうとか、言うつもりはない。それぞれ信じた通りにしたらいいと思う。

 が、リーダーが「手を上げて」と訴えるのはいただけない
 彼らは「人々が礼拝に入っていけるように促してあげているんだ」とか言うかもしれないが、単に礼拝形式を強要しているだけだ。手を上げたくない人は居づらくなってしまうし、礼拝できなくなってしまう。それに、礼拝に「入っていけるように」促してもらわなければ礼拝できないとしたら、初めから礼拝の心なんてないのだと思う。

 また、それを見ている熱心なクリスチャンが将来、賛美をリードする立場になった時、同じように言ってしまうのではないだろうか。しかも、良かれと思って

 そのライブの彼は、皆が手を上げれば礼拝として盛り上がると思ったかもしれない。そうすれば神様も喜ばれる、と思ったかもしれない。
 しかし盛り上がるのはライブであって、礼拝ではない。注目されるのは彼の歌であって、神様ではない。手を上げさせられた聴衆たちの心が礼拝の心でなかったら、神様は少しも喜ばれない
 それは勘違いな礼拝モドキというものだ。

 神様が全然喜んでおらず、逆に「あなたたち何やってるの」と憐れんでおられるその眼前で、したり顔のクリスチャンたちが両手を上げて賛美している、としたら、これほど惨めでイタイことはないと私は思う。

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