クリスチャンが結婚する理由、「好きだから」じゃダメ?

2013年6月25日火曜日

クリスチャンの結婚

t f B! P L
 またまた結婚の話。

 知り合いの牧師に、結婚について聞いたことがある。

 彼の教会は、信徒がクリスチャンと結婚することを推奨している。ノンクリスチャンとの結婚は、禁止とまではいかないが、そういう信徒がいたら考え直すように働きかけるそうだ。
 が、その牧師いわく、「当事者たちが盛り上がってしまうと、もうどうにもならないんですよね

 愛し合う2人の気持ちが熱く盛り上がってしまったら、確かに止められないだろうと思う。本当に好きになってしまったら、相手がノンクリスチャンだろうがムスリムだろうが関係ない、という人は少なくないだろう。

 私は基本的に、人を好きになるのは素晴らしいことだと思う。クリスチャンとノンクリスチャンのカップルがいるのも微笑ましいことだし、「ノンクリスチャンだからダメだ」なんて頭ごなしに言ってはダメだと思う。まして「信仰が足りない」とか「その結婚は失敗する」とか責めるのはナンセンスだ。ほとんど「呪い」みたいではないか。

 が、同時に注意したいのは、一時の感情の盛り上がりで重大な決断をしてはいけない、ということだ。感情はすぐに変わり得る。深い愛情が、一瞬にして深い憎悪に変わることもある。旧約聖書のアムノンとタマルの話(サムエル下13章)も、それを証明している。

 結婚したいくらい愛し合っているのなら、その気持ちを確認する期間をしばらく持つべきだと私は思う。「愛を育てる」と言うとキザだが、相手のことを大切に思うなら尚更、そういう期間は必要ではないだろうか。

 もう一つ、やってほしくないのは、その結婚に無理矢理「神の導き」を当てはめることだ。
 これはノンクリスチャンとの結婚を考えている人に多いかもしれないが、例えば「聖書の○○の箇所が語られました。だからこの結婚は神の御心です」とか「○○さんとの結婚に平安を感じています。だから御心です」とか「○○さんと偶然何度も会うんです。不思議な神の導きを感じます」とか、単にクリスチャンの優等生らしく振舞って、若干感じている「後ろめたさ」に正当性を与えたいだけではないだろうか。ほんの1%かもしれないが、自分をごまかしているように思えてならない。

 そんな正当化なんか投げ出して、「好きなものは好きなんだ」とガムシャラになったらいいと私は思う。その方が正直だし、潔いし、微笑ましい。結婚したい理由に、聖書がどうとか御心がどうとか教会がどうとか、本当に必要だろうか。好きだからで十分ではないか(もちろん、確認の期間を持つべきだという主張は変わらない)。

 多少暴論になってしまったが、正直なところである。

追記)
 前回、結婚相手はそもそも選ぶものではなかったと書いた。が、今は自由恋愛の時代で、良くも悪くも「選ぶ」必要がある。だったら「この人が好きだ」という気持ちを結婚の理由に挙げるのは、ぜんぜん悪くないと思う。

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