クリスチャンの結婚と「神の導き」

2013年6月24日月曜日

クリスチャンの結婚

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 引き続き、クリスチャンの結婚について書きたい。

 未婚のクリスチャンと結婚について話すと、「神様の導きを求めています」という台詞を聞くことがある。

 人の一生は、生まれる前から神様によってすべて計画されている、と聖書に書いてある。神様がアダムにエバという伴侶を与えたのも事実だ。だから自分にもふさわしい結婚相手がいるはずで、それを神様に聞こう、という訳だ。
 気になる異性について「この人でしょうか」と祈り、神様からイエスかノーかの答えをもらって決める、というのが、彼らの理想かもしれない。

 神様からの明確な言葉や「しるし」があれば、確かに話は簡単だろう。何も迷うことはない。
 またその声に従うなら、その人は「御心を行っている」ことになり、良いクリスチャンなのかもしれない。

 が、じゃあ昭和初期頃までの、結婚を強いられていた人たちは御心を損ない続けてきたのかというと、そんなことはないと思う。
 今でこそ自由恋愛が当たり前になっているけれど、20世紀初頭までは、日本人は両親や親戚が決めた人と結婚してきた。何故なら結婚は自分のためでなく、家のためだったからだ。彼らは義務として夫婦になり、子どもを産み育て、家庭を築いてきた。それが日本の文化であり、習慣であった(世界的に見ても同じことが言える)。しかしそうやって日本人の血を絶やさなかったというだけでも、十分に神の御心を行ったと思う。

 聖書もそのような結婚を多く描いている。イサクは相手を決められていたし、ホセアは「罪深い」女性と結婚しなければならなかった。彼らには結婚相手を選ぶという概念はなかった。

 それを思うと、「結婚相手はあの人か、この人か」と迷って神様からの「導き」とか「しるし」とか言うのは、いかにも現代的な問題ではないだろうか。

 しかし、いったいどれくらいの人が、結婚に関して「明確な導き」というのを体験しただろうか。いろいろ証(あかし)を聞いてきたけれど、「はっきり語られた」という類の話はほとんどない。

 また、自分の選択ミスが神様の御心をダメにしてしまう、というのも勘違いな気がする。明らかに罪を犯そうとするなら話は別だが、悪くない選択肢のどれかを選ぶなら、はっきり言ってどれだっていいはずだ。選択ミスというのは神様にとってでなく、自分にとってだろう。それに、仮に罪を犯す選択だとしても、神様は全てをコントロールして益に変えることができるはずだ。人間がどれだけ誤った選択をしようが、神様の計画を邪魔することはできない。

 人間に自由意志が与えられていることを、よく考えてみるべきではないだろうか。パウロはその自由を悪に用いないで、善に用いなさいとだけ言っている。

 結婚したい異性がいて、「神様、この人と結婚すべきでしょうか」といつまでも尋ね求めている人がいるなら、神様が「自分で決めたらいいのに」と思っていないかどうか、一度考えてみるべきだと思う。

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