先日も取り上げたあるクリスチャンが、「地獄を見てきた人」の話を聞いたらしい。
そしてその人が見た「地獄」には、未信者たちの他に、伝道しなかったクリスチャンたちもいたという。
つまり伝道しないクリスチャンは死後に地獄に行くということだ。
その根拠として、エゼキエル33章8節を上げている。内容は、「悪人に警告しなかった者は、その悪人の死の責任を負う」だ。
が、このブログでも何度か書いているように、聖書の一節だけを取り上げて何かを主張するべきではない。曲解につながって危険だからだ。必ず複数の節をみて、その真意を汲まなければならない。
地獄に行かない条件、つまり救われる条件について言えば、聖書は非常に明確に書いている。以下の箇所がそうだ(他にもあると思う)。
・ローマ10章9節「~信じるなら、あなたは救われる」
・ローマ10章10節「~心に信じて義と認められる」
・ガラテヤ3章26節「~信仰によって、神の子どもです」
・ヨハネ1章12節「~信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」
・エペソ2章8節「~恵みのゆえに、信仰によって救われたのです」
以上の箇所から十分わかるように、救われる条件は「信仰」つまり「信じること」だけだ。「伝道しなければならない」という条件は一切ない。
それなのに「伝道しないクリスチャンは地獄行きだ」と言うのは、聖書に対する付け足しで、それこそ罪だ。
とすると、その「地獄を見てきた人」の話も怪しいということになる。
この「伝道しないと地獄行きだ」という主張は、はっきり言ってしまうが、カルト化教会によくみられるものだ。人を恐怖に陥れ、強制的な奉仕活動に組み込む手段でしかない。
その社長は純粋な気持ちで書いているのかもしれないが、そうだとしたら無知すぎる(カルトよりは良い)。天国ですごい豪邸に住めると思っているかもしれないが、実際に天国に行った時のことを、私は他人事ながら心配してしまう。
もう一つ、他人事ながら心配なのは、それを真に受けて信じてしまう人がいないかどうかということだ。
伝道するのは大切なことだけれど、「しなければ地獄行きだ」という強迫観念から起こる伝道とはいかがなものか。その恐怖伝道でも人が救われるなら良いことかもしれないが、そうやって信徒になった人々がまた恐怖伝道に陥っていく、その連鎖が延々と続き拡大していくとしたら、それは神が喜ばれることなのだろうか。
そいういう教えの風に吹き回されるのでなく、信徒一人一人が聖書に親しみ、学び、自分自身でよく考えて、信仰の在り方を模索すべきだと私は強く思っている。
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