信仰が足りない?

2013年2月25日月曜日

キリスト教問題

t f B! P L
先日、ウィリアム・ウッド氏の書籍を読んだ。教会のカルト化について書かれた本だ。その中に「信仰が足りない?」という見出しがあった。
癒しが起こらない、奇跡が起こらない、問題が解決しない、その原因は「信仰が足りないからだ」と主張するグループがあるという。
私の教会にも、同様の主張があった。

特に顕著だったのは2011年。
その年、東日本大震災後の被災地の支援活動として、M牧師は頻繁に東北地方に出かけていた(その初めの動機は、悪いものではなかったと私は信じている)。
その支援活動を通して、M牧師はF県I市にたどり着いた。
彼の主張によると、そこは「御心の地」であり、「とても祈りやすい地」であるとのこと。逆に東京は「霊的激戦地」で、「祈りが妨げられる地」であるという。

彼の戦略はこうだ。
M牧師が東北地方、特にI市で「天が開かれるために」祈るので、東京の教会に残っている牧師や信徒たちが「東京の天が開かれるために」祈る、というもの。
(「霊的戦い」とか「地域に働く悪霊」とかいう点はいろいろ議論されているが、ここでそれらの点には触れない。)

とにかくそういう戦略をもって、M牧師たちが出かけ、私たちは残る。数日後、M牧師からメールが届く。そこには彼らが現地で祈って「主から示されたこと」や「祈りのリクエスト」が書かれている。
私たちはそれを見て、東京で祈る。といっても日中は奉仕や仕事があるので、早朝4時から8時までと、夜間6時から12時まで、それぞれチームが集まって祈るのである。
さて、M牧師たちが帰ってくる。彼はあるとき、開口一番こう言った。
「(I市から帰ってきて)東京に入ったとたん、霊的に重くなった。ぜんぜん破られていない。祈りが足りないんだ」

M牧師たちは、I市では充実した祈りができたらしい。I市は祝福の場所であり、そこで祈る自分たちの「霊性は高い」という。逆に「霊性の低い」私たちは、東京での祈りの戦いに勝てない。I市で霊性を高められたM牧師たちは、東京に帰ってくるとその霊性の低さに「重たく感じる」というのだ。

私は「そうなのかもしれない」と思った。しかし「だからもっと頑張ろう」とは思えなかった。
ここで何度も書いているが、当時の私は日々の奉仕に忙殺されていて、もう他のことをする余裕も考える余裕もなかったからだ。この期に及んで「信仰が足りない」とか「祈りが足りない」とか言われても、「じゃあもっと時間をくれよ」と言う他ない。

M牧師は「信徒が奉仕をするのは当たり前だ」と常に言っていた。
だから「信仰が足りない」「祈りが足りない」「奉仕が足りない」という発想になるのだろう。

同書には、「信仰はクリスチャン生活の成績表ではない」という見出しもある。
どれだけ礼拝するか、献金するか、奉仕するか、ディボーションするかで、祈りが聞かれたり御業が現れたりするのではない、という意味だ。
M牧師は口では同じようなことを言っていた。しかし事実上、信徒たちを「どれだけ~したか」で測っていた。そしていつも「足りない」と言って怒っていた。

ウッド氏はそのような状態に陥った教会を「律法主義」と書いている。まさにその通りだ。

「私たちが頑張ったから~できた」、ということを、すべて神様の御業とするのは危険だ。一般の企業が頑張って業績を上げたのを「神様のおかげだ」と言ったら、社員たちは納得しないだろう。(広義には、すべての事象は神によって支えられていると言えるが。)
人が集まって何かをすれば、ある程度の結果を生み出せる。そのすべてを「神様の働きだ」と言うのは、「神様はご自分では何もできない方だ」と言うのと同じだ。それは神様を否定することになる。
あるいは、「もっと神様の働きが現れるために、もっと頑張ろう」という話になってしまう。

私たちが頑張らねば御心を達成できない、そんな神様は神様ではない。
真の神様は人間の協力を必要としておらず、ご自分ですべてのことを達成できる。人の最大の役割は、そんな神様をただ礼拝することにあるのだ。
神は全知全能なだけでなく、憐み深く、弱い人間を助けて下さる方だ(キリスト教会はいろいろな教団教派があるが、その点だけは一致するはずだ)。神様はもちろん私たちの努力を認めて下さるし、同時に私たちの頑張れない弱さをも受け入れて下さる。怒ったり裁いたりしない。

ウッド氏の著書によると、今も多くの日本の教会がカルト化の問題にあるという。そして多くの信徒は純粋に、神様のためだと思ってその状況に耐えているという。かつての私たちがそうだったように。

QooQ